「思っていたよりも大きな作家なのかもしれない」

 これが評論・エッセイを収録しているこの『小島信夫全集6』を読んでの感想であり、発見だった。そう「発見」だった。

 ぼくは半世紀前の大学二年生の時に『抱擁家族』を初めて読んだ時から小島信夫のファンを自認してきたのだが、今回これらの評論・エッセイを改めて読むまで、彼が大きな作家だと考えたことはなかった。好きな作家で、ぼくにとって最も切実なことを書いている作家だけれど、読者の少ないマイナーな作家で、それほどすごい力のある作家だとは思っていなかった。だから、ぼくがすごい批評家だと思う吉本隆明がどこかで現代の作家のなかで数少ない大きな作家の一人として小島信夫の名をあげていたのを読んで、ちょっと驚いた記憶がある。

 ではこれらの評論やエッセイのどこに小島信夫の大きさを感じたのかと問われれば、それははっきりとはしない。部分的に良いことを言うな、なるほどと思うところはいっぱいあるのだが、その評論なりエッセイなりの一篇全体を通じてみた場合、小島信夫が一体何を言いたいのかがはっきりとはつかめないのだ。一言で言えば難解なのだ。

 思うに小島信夫の評論やエッセイが難解なのは、彼が一人のプロの小説家として自分はどのような作品を書きたいのかといつも考えながら書いているからではないだろうか。小説家ではない一般の読者は良い小説を読みたいとは考えるかもしれないが、どうしたら良い小説が書けるかなどとは考えないから、読んでもよく分からないのかもしれない。

 以下に抜き書きしたのは、そんな難しい彼の文章のなかで、比較的分かりやすいと思える部分だ。こんな部分がぼくを今後も小島信夫の作品を読み続けたいという気持ちにさせる。

 《様式化することは非人間化することのように見えるが、じっさいはその反対で訓練のきびしさをのぞかせ、そのプロセスをしのばせるがために、かえって人間の存在を浮かばせることが可能なわけであろうと思う。》

 《私にとって他人の小説なんか、どうでもいいのである。それに私は目下世界中で書かれている小説に読むに堪えるものがあると思ってはいない。小説くさくって仕方がない。小説くさくないものは、また「ただそれだけよ」といったふうのものである。》

《老齢というのは一つの時期ではなくて、あらゆるところへ出入りできる年齢のことだ。》

いつか小島信夫の本当の大きさを実感してみたいものだ。

 

『小島信夫全集6

 講談社 昭和46728日 第一刷発行