ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』は《テーマ的にも技法的にもフランスに来て書かれた長篇小説『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』の基盤であり源泉であるような作品である。》と「訳者あとがき」に書いてある。

ぼくは読んでいて途中から難しくなって退屈したのであったが、このあとがきを読んで、難しかった原因はこの小説がクンデラにとっての基盤であり源泉であるような作品だったせいかもしれないとも思った。よくは知らない作家の作品の基盤、源泉となっているような作品はわかりづらいものなのかもしれない。よくは知らない人物の個性的な話の内容、話し方がわかりづらいように。

退屈しながらもなるほどと思う文章はあった。それを抜き書きしておこう。

《憲法はたしかに言論の自由を保障してはいるが、法律は国家の安全を侵害するとみなされる一切の事柄を罰する。》

《私たちが本を書くのは、自分の子供に関心を抱いてもらえないからなのだ。見知らぬ世間の人々に訴えるのは、自分の妻に話しても、彼女たちが耳を塞いでしまうからなのである。》

 《というのも、愛とはたえざる問いのことだからだ。》

 《〈歴史〉とは一連のかりそめの出来事だが、永遠の諸価値は、〈歴史〉の外で永く生き続け、不変であり、記憶を必要としない。》

 《事物は繰り返されると、そのたびに本来の意味の一部を失う。あるいは、もっと正確に言えば、事物は少しずつ、自動的に意味の前提となっていた本来の生命力を失う。》

このように抜き書きしてみると、他人にはわからないだろうが、ぼくには、ぼくが今中国の北京で王小波を読みながら独りで暮らしているという事実が改めて浮き彫りにされるような気がする。

 

『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ 西永良成 訳

 集英社文庫20131125日第一刷