久しぶりのメール。

 昨年の春節に一時帰国した時に古本屋で買った吉本隆明の『初期ノート』(光文社文庫)を読んでみた。吉本隆明が詩人、批評家として世に認められるようになる前に書いた文章が集められている。君はおそらく学生時代に読んだのだろうな、と読みながら思った。それが久しぶりにメールを書こうという気になった理由の一つだ。

 多分小難しいことがあれこれ書かれているのだろうなと思いながら「第Ⅰ部戦後篇」を読み始めたのだった。ところが、そこに収められている「箴言」を、読み進むうちに、確かに易しくはなく、ぼくには難しいと思えることも書いてあったけれど、小難しい理屈はこねておらず、その後の吉本隆明という人の個性が感じられる言葉を発見することができた。

 その後の吉本隆明と書いたけれど、ぼくが、吉本隆明が書いたものを少し読み始めたのは五十歳を過ぎてからで、しかも主に読んだのは吉本隆明が老人になってから書いたものや語ったことを集めた本で、ぼくは君のように吉本にずっと注目してきたわけではなく、むしろ吉本とは無縁な人間だった。

 だから「その後」とは「老人の」という意味で、油の乗り切った働き盛りの時の吉本隆明がどのようであったかは知らない。

 「箴言」を読み終わって「宮沢賢治論」を読むと、宮沢賢治が吉本隆明に与えた影響の大きさを実感することができた。

 ご存じのように童話に興味があったこともあり、学生時代に筑摩書房の全集で宮沢賢治の作品にはざっと目を通して、彼はぼくが卒業論文で取り上げた新美南吉なんかとは比べ物にならないほど大きな作家だと思ったものだった。宮沢賢治の作品に対する吉本の読みの深さをこのように見せられると改めて宮沢賢治を読みたくなった。今度帰国して四国に行く機会があったら、田舎の家に置いてある全集を持ち帰って再読しようと思う。

 宮沢賢治といえば、学生時代、ぼくが彼の作品についてちょっと話した時、君が宮沢賢治を軽々しく論じるのは怖いといった感じのリアクションを起したのは今思うと君が吉本隆明の賢治論の影響下にあったせいなのかなと吉本の賢治論を読みながら思った。君はそんなこと覚えていないのだろうか。

 本には宮沢賢治論の次に、吉本の若い日の詩が収められていたけれど、それらはあまりよくはわからなかった。

 「第Ⅱ部戦中篇」ではもっと若い吉本隆明に出会えてうれしくなった。

 戦時下の早熟な少年、青年が何を考え、何を夢見ていたのかを感じることができた。

 死んだぼくの父親は吉本隆明より一つだけ年下だ。高等小学校を出ただけで、吉本のように学が有るわけでもなく、短い期間だけれど、満洲に戦争にも行っており、吉本と比べるものは何もないけれど、そんな父にも吉本のような戦時下の青春というものがあったのだな、とこの「戦中篇」を読みながら思った。

 以下にこの本を読みながら線を引いた部分を抜き書きしておこう。

 《祖国のために! こんな空虚な言葉が存在するだらうか。僕らには祖国などといふものはないのだ。やはり個々の人々があるだけだ。支配者はいつもそのやうに人々を架空なもので釣り上げる。》

 《僕らは正しいことをやる奴が嫌ひだ。正しいことはしばしば狡猾に巧まれた貧慾である。倫理が他人がそれに従服すべきもので自らは関知せぬと思ってゐるものは、この正義の士のうちにある。》

 《他人を非難することは出来る。だが自分を非難し罰し得るのは自分だけであることは知ってゐる必要がある。謙譲といふことはここからしか生れない。》

 《個性に出会ふ道と、空想を脱する道とは決して別ではない。むしろ同じことを別な表現でしてゐるに過ぎない。》

 《人は自らを知るのに半生を費やす。その後で仕事が始まる。》

 《輝かしき……雄々しき希望……。僕の精神は誓って言ふことが出来るのだが、世にはそのやうな希望は存在しない。希望はいつも苦しそうに精神の底でひそやかにしてゐる。二つも重なりあった投網のやうなかぶせる言葉はいつも虚偽の感じを伴ふことなしに僕の魂へは響かない。》

 《僕は度々正義の味方になることを強制せられた。だがぼくには常に一つの抑制があって、正義といふような曖昧なものに与することを願はなかつた。それはひとつの知心とも言ふべきもので、僕が何を欲するかといふことを通じて、人間が如何なるものかを知らうとする心があつた。そして最も主要なるものは最もかくされてゐることを信じてゐた。》(以上は「箴言Ⅰ」)

 《戦争とは一つの指向性であって、これを阻止するには、逆に働くところの現実的な指向性を必要とするのである。》

 《自らに対する嫌悪と修正の意欲が、わたしを精神的に生かしてゐるのだと言ったら誤謬だらうか。》(以上は「箴言Ⅱ」)

 《私たちはこの詩(『雨ニモマケズ』のこと)が願念と事実との不思議な交錯に織りなされてゐることを知ることが出来ました。

 文学といふものの持ってゐる優れてゐる点は実にこのやうな点にかかってゐます 文学は論理に於て哲学にゆづるに違ひありません 又感覚に於ては心理学であるでせう 併し文学の尊さはそこにはないのです 文学を論理的に読んだり心理的に読んだりして満足してゐる人は終に文学の本質とは無縁の人であります》

 《日本の敗退は理念を喪失した人々だけが導いたものであることは論をまちません 理に依って動く偏狭な現実主義者は終に決定的な悲劇を導入致しました 願くは偏狭な国際観念を排して、静かに難局に這入つてゆく豊かな日本の道を得たいと思ふのです》

 《伝統といふものは歴史的現実体としての自己を意識することによつて、始めてその人に意義を含んで現はれるべきものと考へます》

 《彼の作品には確かに異常な盲点とも言ふべきものがあり、それが接するものに茫とした底の深さを感じさせます》

 《彼の自然科学的な修練は常に対象を形態と色相と光線との三つの面から感覚しやうしてゐます》

 《彼自身も「熱く湿つた感情を嫌」ふと言ふやうに、精神の広大な領域に足を踏み入れて苦悩するといふやうな近代の人間性が敢てする(漱石も明らかにそれです)道を彼自身は実は真正面から通過して居りません それは彼自己が青年期から直ちに信仰の世界に踏み込むといふやうな大凡自意識の錯交とは縁遠い出発をした事と、科学的な教養との結果と考へることが出来ます 彼の決断が時に精神の領域に於て大らかさを失つてゐるのはこのために外ならないのです》

 《彼に於ては歴史的な現実はなく、自然の絶対的な時間の流れとそのなかに立つてゐる人間の相があるだけでした》

 《彼は一切の伝統をしりぞけ、既成の思想や手法をしりぞけ、新たに自己の一点から創造するときに、それが歴史的な生命と必ずや一縷の繋りを示すことが出来ることを彼が体認してゐたといふ事なのです「すべてのもの伝統ならざるものあらんや思想ならざるものあらんや」》(以上は「宮沢賢治論」)

 《あの山襞が日に三遍も色彩を変へることをやがて孤独が私に訓へた》(「『時祷』詩篇」)

 《どんな種類の文章を書いても、自分を自分以上に表はそうとしたり、又何の意味もないことを意味ありげに書いたりさへしなければ、その人が自然に現はれるものです。》(「米沢時代」)

 《どんな戦争や専制のなかでも、「個」は、それを体験しないものが考えているよりも、はるかに多くの自由をもっているものである。ときとして、ぶるぶるふるえるような緊張と恐怖とを体験する瞬間があるとはいつても。》(「過去についての自註」)

 いつにも増して引用が多くなってしまったけれど、このように抜き書きしてみて改めて思ったのは、このような若い日々の経験と思索が一人の信頼できる批評家を育てたのだということだった。

 

『初期ノート』吉本隆明

光文社文庫2006720日 初版1刷発行