※結願の2年後に行った、霊山寺へのお礼参りです。

※以下はあくまでも概ねの行動記録であり、長時間の食事・休憩等を記載していない場合もあります。

 

〇2026年8月31日(月) 曇り   

JR京都駅9:20発~(高速バス)~JR徳島駅~(高徳線)~造田駅~(さぬき市コミュニティバス)~大窪寺

(88番)大窪寺 15:50~17:00※

※奥の院(境内から約700メートル登った所にある)への参拝(16:40~16:45)を含む

宿泊:八十窪(2食付)17:05着

 

〇9月1日(火) 晴れ【※歩き通算53日目】

※結願日(2024年8月1日)までに実質的に要した日数(52日)との通算。

        ☆7:55 宿出発 

(88番)大窪寺(再)8:00~ 9:20※

※大師堂内拝(8:10~8:50)を含む  

市場大月公園   10:50~11:15

犬墓大師堂    12:05~12:20

(10番)切幡寺 14:00~14:40

 (9番)法輪寺 15:35~16:55

宿泊:3980円旅の宿(素泊まり)17:45着

(近隣のスーパーで夕食を調達してから宿に向かった)

 

〇9月2日(水) 晴れ時々曇り【歩き通算54日目】

        ☆7:20 宿出発     

 (8番)熊谷寺  8:05~ 8:40  

 (7番)十楽寺  9:30~ 9:55

 (6番)安楽寺 10:15~10:45

 (5番)地蔵寺 12:15~12:35 

 (4番)大日寺 13:00~13:30

 (3番)金泉寺 14:55~15:20

 (2番)極楽寺 15:55~16:15

 (1番)霊山寺 16:30~17:00

宿泊:観梅宛(2食付き)17:20

 

〇9月3日(木) 曇り時々雨

        ☆9:30 宿出発

鳴門西10:42発~(高速バス)~JR京都駅

 

〇『原点に還る旅』 

 9月1日(火)朝、第88番札所・霊山寺(香川県さぬき市)の二天門前で一礼し、2年1か月ぶりに歩き遍路を再開。複数ある道筋の内、いったん10番札所の切幡寺(徳島県阿波市)に出た後、かつて歩いた道を逆戻りするルートを選んだ。

 途中の札所にも寄りつつ1番・霊山寺(徳島県鳴門市)に至る、約45キロの道のりを2日に分けて歩く行程となる。

 

 既述のとおり、一昨年の結願時には霊山寺へのお参りをしていなかった。

 2年の歳月を経て「これから遍路とどう向き合うか」について思いを巡らせる中、ごく自然な流れで霊山寺再訪を思い立った。より厳密に書くと「霊山寺に象徴される遍路の初期段階を再体験することで初心に帰り、共に歩いてくださったお大師さまに改めてお礼を申し上げるための訪問」という認識をしている。

 

 お礼参り本来のセオリーからは外れるかもしれないが、「白衣を纏ってへんろ道を歩く以上、ひと寺でも多く札所寺院を訪れたい」という思いがあり、道中に所在の10番から2番までの札所すべてに立ち寄るつもりでスケジュールを組んだ。

 とはいえ、日中の最高気温が35度に達する予報がある中、「体調も考え、決して無理はせずに」を肝に銘じて旅を進めた。

 

 2年前の道中で頻繁に向き合った「何のために今歩くのか」といった小難しい考え事とは、今回割と無縁でいられたと思う。一つは、7月に再開したこのブログで取り留めのない思いを概ね吐き出していたことで、良い意味で、頭がからっぽになっていたのだと思う。

 

 もう一つには、前夜同宿で夕食をご一緒したRさんの存在がある。初めての歩き遍路を結願した彼女は、私より人生経験を重ねておられるようにお見受けしたが、まさにお元気そのもの。いわゆる「愛されキャラ」全開で、沿道の方々の助けを受けながら今日を迎えられたのだろうということが、言葉の端々から伝わってくる。「豪放磊落」「天真爛漫」の言葉がぴったり当てはまるパワフルなトークで、道中の体験をシェアしてくださった。

 

「何と型破りな。そのスタイルで結願まで行かれたのですね」

 これまで様々な歩き遍路さんの体験を伺ってきたが、半ば絶句する思いで畏敬の念まで覚えたのは初めてのことであった。

(私の拙い筆力で「真意」をお伝えすることが難しいため、伺った道中体験についての詳述は控えます)

 ほんの一瞬とはいえ、彼女に「型破り」のレッテルを貼った自分にふと気付いた。

 そもそも、遍路が破ってはいけない「型」って何なんだろう。

  いや、何らかの型はあるとしても、自分はそれを大所高所からジャッジ出来る立場にいるつもりだったのか(何様のつもり…)

「百人のお遍路さんがいれば百の物語がある」とか何とか。したり顔で語っていたのは誰だ!?(俺か…)

 

 1時間弱のトーク中にお大師さまの「お」の字も出てこない、恐らく基本的なスタンスは私と異なるであろう遍路としての歩み。だが、こちらのスタイルが否定されるような違和感ではなく、「自身の物語」を一心不乱に生き抜いて結願を迎えたばかりのお遍路さんとひと時ご一緒出来た喜びで、心の奥底まで満たされる思いだった。

 

 無知・未熟を恥じることなく、五感をフル活用して貪欲なまでに遍路を味わおうとする、前向きな気持ち

 

 2年前、大窪寺に置き去りにしてしまったものの正体は、これだろうか。

 いや、どうもそれを獲得し切れないまま遍路を終えたような気もする。

 だからこそ、Rさんの中にその輝きを見付け、無意識に抱いた羨望が「型破り」という第一印象に転化したのかもしれない。

「私って本当に無知なんですよ~」と屈託なく笑う彼女を見た時、ある種の凄みすら覚えた。

 

「毎日が楽しくて幸せで、女体山の頂上でぼろぼろと泣けてきました。途中で辛いと感じたことは、一度もなかったです」

 きっぱりそう言い切ったRさんの目は、本当にきらきらと輝いて見えた。心の中のもやもやを一気に吹き飛ばすような爽快感のおすそ分けをいただき、すっきりした気持ちで旅立ちの朝を迎えることが出来た。

 

 大窪寺から1~2時間歩いた辺りで、直近の投稿で用いた締めのフレーズが気になり出した。霊山寺に立つ2年前の自分に「あなたの前途には素晴らしい出会いが待っている」と伝えたい、という文章である。

 そんな気持ちで過去の自分と向き合おうと思ったのだが、歩き遍路の旅路に復帰した「当事者の感性」で見ると、何とも陳腐な作文に思えてくる。

 これからいざ旅立とうと意気込む遍路が、2年先の未来からのこのこ戻って来た自分からの激励を受けたいだろうか。

 

 その旅路の先に、素晴らしい出会いがあろうと、なかろうと。

 ただ一心、同行二人で遍路道を歩めることそれ自体に全身打ち震えるような喜びを感じて霊山寺を後にした。

 それがあの日の自分。それこそが、ビギナー歩き遍路としてのわが心意気だったのではないか。 

 

 こうして汗を拭いつつ歩いていると、空調の効いた快適な部屋でパソコンに向かって書く文章が、ともすれば空虚な理屈に絡め取られてしまうことに気付かされる。

 他のお遍路さんだけではなく、過去のわが身が風に吹かれ、雨に打たれ、52日かけて紡いだストーリー全体に、余すことなくリスペクトの気持ちを向けたいと思う。

 

 到着日(8月31日)の夕方、奥の院(胎蔵峯寺)にもお参りさせていただいた。 

 女体山経由で大窪寺を目指すお遍路さんが到着直前に下る山道を、途中まで登っていく。大窪寺の境内から約500メートルの所にある分岐点で女体山へは行かずに左(写真中央奥)へ入り、200メートルほど進むと小さなお堂に到達した。結願の時は通行禁止で行けなかったため、奥の院へは今回が初めての参拝となる。

 四国に戻って来られた喜びを胸に抱き、欣喜雀躍の思いで駆け上がった。

 

 9月1日(火)朝。結願の時もお世話になった「八十窪」さんから朝日を眺める。

 窓を開けると、階下の食堂で朝からテンションマックスのRさん(30分早く朝食を取られた)に合いの手を入れる女将さんのやり取りがまる聞こえで、思わず笑ってしまった。たくさんの元気をくださったお二人には、ただただ感謝。

 

 大窪寺を出て1時間も歩かない内に国道377号線を外れ(写真右奥へ)、ほどなく徳島県へと入った。

 2日間、ほぼひたすらアスファルトの上を歩く旅程にはなるが、杖を手に、白衣を着て四国を歩く高揚感は何物にも代えがたいものだと改めて感じた。

 

 快晴の空の下、一路切幡寺を目指す。

 稲刈りの光景も見られ、暑さの中にも秋の気配を感じた。一昨年の春に歩いた徳島~高知の遍路道も、これからの季節はまた違った表情を見せるのだろうと想像を巡らせる。

「歩き遍路の醍醐味は、理屈ではなく感性で受け止めたい」

 Rさんの話を聞いて抱いた思いが、通奏低音のように胸の奥底で鳴り響いていた。

 今回は諸々の考え事を極力振り捨て、道すがら仰ぎ見た空の青さを、山の緑の深さを、そして照り付ける日差しの厳しさを、しっかり心に焼き付けておこう。

 

 

    

 15時半過ぎに9番札所である法輪寺に到着。次の熊谷寺まで同日中に参拝する予定だったが、かなりバテ気味になり断念。

 ここまで割と雑念に囚われず歩けていたのは「無心の境地」の賜物なのか、あるいは、単に暑さによる放心状態に陥っただけなのか。

 どうやら後者の要因も少なからずあった事実を素直に受け入れ、境内のベンチでゆっくり休ませていただいた。

 

 

 9月2日(水)、朝一番で8番札所の熊谷寺へ参拝。納経後、しばし境内に佇み、朝の爽やかな空気を深呼吸で体内に取り込んだ。

「やっぱり熊谷寺は今日にしてよかった」

 しみじみそう思った。もし前日、納経所が閉まる17時前に駆け込みで来ていたら、形だけのお参りになっていたかもしれない。

 昨日法輪寺でダウンした不甲斐ない自分も含め、お大師さまのご加護をいただいて紡ぐ、唯一無二の物語。無理はせず、気負わずに歩きたい。

 そんな思いで一日をスタートさせた。

 

 熊谷寺を後にして7番札所の十楽寺へ向かう途中、何組かの歩き遍路さんと相次いですれ違い、挨拶を交わした。合計10人ほどだったろうか。2年前にも逆打ちの方と時折すれ違ったが、自身が逆打ちの方向で歩くと、同じ道でも少し景色が変わって見えた。

 

 今日は曇り空が広がる時間も割とあって、昨日よりはまだ歩き易く感じた。

 もちろん自己を過信することなく、体力の消耗度合によっては「途中の札所参拝を省略する」「霊山寺への参拝を翌日朝一(高速バスへの乗車前)に行う」などの柔軟対応も選択肢に入れていた。

 だが、14時半頃、霊山寺方面に続く旧撫養(むや)街道に入り、「残り約6キロ・途中経由2寺(3番札所・金泉寺と2番札所・極楽寺)」となった状況を踏まえ、「17時までに霊山寺の参拝を終えられる」と言う見立てが出来た。ここで俄然力がみなぎり、足取りが軽くなった。

 

「待てよ。何か大切なことを忘れていないか」

 金泉寺に到着し、さあ納経をと意気込んで本堂前に立った時にふと思った。 

 その「何か」が、この2年、日々積み重ねてきた祈りのことだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。

 その日四国を旅されるお遍路さんの道中安全と、沿道でお遍路さんを見守ってくださる方々のご健勝を、八十八ヶ寺の仏様のご真言を順次唱えつつ祈る。一昨年の結願後ほどなくして始めた習慣であり、日常生活の中に定着していた。

 遍路として四国に立つまさに今こそ、その祈りを捧げたいと思った。

 

 今朝、十楽寺の手前で手を挙げて陽気に挨拶してくださったお遍路さん。

 つい先ほど通った道端で「ごくろうさま」と頭を下げてくださったお婆さん。

 この2年、祈りの対象たる観念として脳内で相対してきた方々と、直接挨拶を交わせた喜びがじわりと込み上げてくる。

 気が付くと、涙が頬を伝っていた。

 

 今日四国を旅するお遍路さんの道中安全を、札所寺院のご本尊様の前で祈らせていただく。これに勝る幸福があるだろうか。余人は知らず、これこそが、自分が遍路として生きる物語の一丁目一番地に据えたい主題だった。

 古今のお遍路さんが四国に残された祈りの集積を思い、至福の思いで回向文をお唱えしていた、一昨年の夏の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

 この気持ちの高まりを、あえて四国に置いて帰る必要はなかったのだ。

 明日以降に行う祈りの中では、今日遍路道で出会った方々の姿も思い浮かべよう。

 

 今日も四国を旅されるお遍路さんが、道中ご無事でありますように

 いつもお遍路さんを見守ってくださる方々が、今日も一日、健やかに過ごされますように

 

 今日はもう夕方ではあるが、普段自宅でしているこの祈願を、金泉寺を含む最後の3寺でさせていただいた。

 

 前稿で、「再び霊山寺に戻ると、累積歩行キロ数がゼロに戻る寂しさを感じるのではないか」という2年前の率直な思いを記した。実際に戻ってみて、なかなか的を射た予感だったな、と妙に納得した。

 大窪寺で結願した時には、達成感・高揚感に包まれながら、まるでトロフィーを授かるような晴れがましさ(誇らしさ)があった。だが、今霊山寺に来てみると、逆にそれを返還するかのような寂寥感を覚えた。

 霊山寺から新たに旅立つお遍路さんを目の当たりにすると、自分が「すでに終わった人(遍路を終えた人)」であるという現実と向き合わざるを得ない。次の遍路を始めない限り、自分が次に踏み出すべき旅路はもう1ミリも残されていない。

 

 だが、その「トロフィー」を返還してもなお、否、返還したからこそ、遍路を通して得た出会いや学び・気付きが胸の中でより輝きを増していることに気付いた。

 それらは、修行の成果として「勝ち取った」ものではない。あくまでもお大師さまから「授かった」ものなのだ。結願で感じた達成感や晴れがましさは、いわば「授かりもの」を包む煌びやかな包装紙のようなもの。リスペクトの気持ちを持って、ひとときその輝きを味わえたなら、それで良いのだと思えた。

 包みの中のギフトこそが肝要。それは、2年前の自分にドヤ顔で見せるものではなく、令和8年を生きる今の私が心静かに開封し、受け止めるべきものだった。

 魂がそう理解したからこそ、2年前に大窪寺では泣かなかった私が、今日、霊山寺の門前で歓喜の嗚咽をこらえ切れなかったのだと思う。

 

 他の参拝者がおられない熊谷寺の境内で心を落ち着け、蝉の鳴き声に耳を澄ます。 

 潤沢な時間を持つ観光客として訪う寺院も良いが、時に慌ただしくなる巡礼の途上、しばし立ち止まって眺める景色に独特の味わいがあったことを、懐かしく思い出した。

 

 第3番札所・金泉寺では「あなたは何のために四国に来たのですか」と問われたような気がした。旅を締めくくる上での貴重な気付きをいただき、祈りの持つ力や意味について深く考えさせられた。