音楽が繋ぐ縁(2)
2025.10.12(日)に広島県竹原市にある藤井酒造を訪問してきました。
藤井酒造株式会社
2022年9月に広島のお友達と総勢12名で旧仕込み蔵を開放された「酒蔵交流館」訪問しており、館内の「酒蔵そば処たにざき」でランチをいただきました。
その時のことを書いたブログです。
このブログの最後に
「当日は竹原散歩もありお酒は控えめでしたが、次回は『酒蔵そば処 たにざき』だけを目的に、お酒メニューを端から全種目制覇を目指したいな、と思いました。」
と思うくらい素敵なお店だったので、念願の再訪。
酒蔵交流館の11時オープンと同時に交流館に入ります。
まずは「酒蔵そば処 たにざき」に行こうとスタッフの方に聞くと、10/6で閉店された、とのこと。
実は「酒蔵そば処 たにざき」店主のご体調もあって今年10月末に閉店とは聞いており、最後のチャンスとは覚悟しておりましたがちょっと想定外。
お土産を持参したこともあり、藤井酒造の会長(藤井善文さん)にお越しいただいて事情を教えていただきました。
以前から店主(たにざきさん)のご体調がすぐれず、10月末の契約終了でそば処は閉店予定だったのですが、店主が入院されたので日程が早まり10/6で閉店となってそうです。
藤井会長とはメールでやり取りをさせていただいていたので、当日の営業は店主の体調によることは承知しており、「酒蔵そば処 たにざき」が営業していなくても酒蔵交流館は訪問するつもりでした。
藤井会長に「お蕎麦がお好きなら」と教えていただいたのが、酒蔵交流館から歩いて5分程度の「遊山」というお店。
そんなに「蕎麦が好き」というほどでもありませんが、せっかく藤井会長のお薦めのお店、ということで遊山へランチに向かいました。
高齢の店主がお一人で切り盛りしておられるので、時間がかかるし少し気難しいかもしれないけど味は確かです、というのが藤井会長の評価でした。
お店の入り口を入ると「いらっしゃいませ」の声もなく、少し進むとお客さんが3人連れと2人連れの2組がテーブルに先客が座っておられました。
ご夫婦と思しき2人連れは酒蔵交流館にもおられましたね。
(こちらの写真は先客がお帰りになってから撮りました)
カウンターが空いていたので、立って待っていたら店主が調理場から出てきて、
「時間がかかりますがいいですか?」
とのこと。
移動までにはたっぷり時間があったので、カウンターに座って待たせていただくことにしました。
実はお店に入ったときから気になっていたのが、バッハの無伴奏チ
壁にはチェロとビオラダガンバ、チェンバロ?が飾られていました
私が座った席の前には『江戸の健康食』という小泉武夫先生の本が
少し落ち着いた時点でオーダーを聞いていただきましたが、藤井酒造さんのお酒が無かったこともあり、ビールと鴨なんばんを注文。
お料理を待つ間にも何組かのお客さんが入ってこられましたが、時間がかかりますよ、ということで出ていかれました。
先客2組が帰られてビールとお豆腐を出していただいたタイミングで、店主に
「バッハの無伴奏チェロがかかっていて、チェロが飾ってあるのが気になって」
とお声をかけさせていただきました。
店主は東京のアマチュアオーケストラでチェロを弾いていたようで、竹原に戻ってからも音楽活動をしておられた様子。
コロナ前には、お店でミニコンサートもされていたようです。
壁に飾ってあるチェロはバロックチェロとのこと。
私の長男の友人(鷲見 敏さん)がプロのチェリストになっていて、バロックチェロで演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲のコンサートに行きました、というお話でも盛り上がりました。
広島でチェロと言えば秋津智承(あきつ・ちしょう)さんというお坊さんのチェリストもおられますよね?という話題も。
住職はチェロの演奏家|秋津智承さんインタビュー<前編>
「お念仏がありがたい」と感じる僧侶が奏でる音色│秋津智承さんインタビュー<後編>
私は「音楽の館」という加古川のお寺(教信寺)の境内にある奏楽堂で秋津さんの無伴奏チェロ組曲の演奏もお聴きしたことがありました。
音楽の館は教信寺住職でコントラバス奏者の長谷川悟さんのコンサートホール。
長谷川さんと秋津さんはコントラバスとチェロの坊主二重奏団「Duo Bows」というユニットで活動されるときもありますね。
ちなみに「Duo Bows」は「坊主」と「Bow(弓)」をかけたネーミングです。
加古川の寺でニューイヤーコンサート 住職の二重奏国際ユニット「デュオ・ボーズ」(加古川経済新聞)
店主と色々な話で盛り上がりましたが、92歳でも現役で活躍しているチェンバロ奏者の小林道夫先生のコンサートに行きました、という話には驚いていただきました。
壁に飾ってあるバロックチェロは、プロの演奏家の方に貸しておられた楽器が最近戻ってきたとか。
その方も含むピアノと3人で広島で演奏されたコンサート(確か1990年頃?)のプログラムも、最近見つけたので飾っています、とのことでした。
あんまり店主とのお話が盛り上がったので、肝心の鴨なんばんの写真を撮り忘れましたが、本当に楽しく美味しく過ごせた想定外のご縁でした。
タイトル「音楽が繋ぐ縁(えにし)(2)」のオリジナルはこちらです。
ここのところ音楽は聴くだけになっていますが、それでも色々なご縁が繋がるのは有難いな、と感じた一日でした。
思い出は心の中にしまうものと考えていた《天狼院メディアグランプリ採用記事》
2016年6月から4か月間、人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」に参加し、毎週、メディアグランプリに投稿を続けました。メディアグランプリは、ライターでもある天狼院店主の三浦さんが投稿記事をチェック、基準以上の記事はWeb天狼院に掲載されるシステムです。私は16回の投稿のうち9回が採用されました。
これまで採用されていた記事が天狼院書店のWEBページに掲載されていたのですが、最近、掲載されなくなっていました。残念に思って店主の三浦さんに「ブログに再掲していいですか?」とお問い合わせさせていただいたところ、早速ご快諾をいただいたので順次再掲させていただき、今回が最終回です。
掲載された記事に関する「私なりの」舞台裏もブログに投稿しております。
実家を売却したときに断捨離した。
私が中学校3年生の時に父親が建てた実家は鉄筋2階建て、緑の大屋根で、兵庫県加古郡播磨町にあった。阪神淡路大震災のとき、実家は激震地からかなり離れていたが、父親は亡くなって母親がひとりで住んでいた。電話で母親の無事を確認したが「もしウチの家が地震で壊れるくらいなら、周囲の家は全部壊れる」と言って笑えるくらい頑丈なつくりであった。そう言えば、家を建てるために基礎工事をしているとき、周囲の方から、いったいどんな家が建つのか?と驚かれるくらい、しっかりした基礎だったらしい。父親の友人が経営する設計事務所にお世話になり、中学生だった私も間取りの検討には参加していた。
もう7年前の9月、いつもの週末のとおり母親の様子を見に行った。玄関に鍵がかかっておらず、不思議に思って中に入ると母親は自分の部屋に入ったところにうつぶせになって倒れていた。救急車を呼んで病院に搬送してもらい、最初の病院ではおさまらず、2つ目の病院でICUに入って意識が戻らなかった時には、もう覚悟していた。翌日、どうしても動かせない出張があったので、身近な親戚を呼び寄せ、家内が病院に向かったのだが、電話で様子を聞くと「お義母さん、べらべらしゃべっている」と回復していた。退院後は私の自宅近くにある大阪府池田市の老人ホームで暮らしたが、次男が私立中学に合格し、明日がオリエンテーションで初登校、という日に亡くなった。倒れてから半年後だった。
その後、思い入れのある実家を売却することになった。
実家のお隣に住む方も、長らく入院された後にお亡くなりになり、相続のために売却するので、一緒に売却しないか、という話をいただいた。お隣も高齢女性の独居で、お子様がいなかった。実家の土地は、お隣の方の親戚から購入した関係で、土地の形が入り組んでおり、同時に売却することが合理的であった。
実家売却の話が進んでいる中で、思わぬことが判った。売却をお願いしている不動産屋さんの奥さんが、私の高校同級生とのこと。この同級生は高校時代に私の家に遊びに来てくれたことがあったので、場所と名前から同級生では?と判ったらしい。実家で壊れたまま長らく放置されていた機械時計を、この不動産屋さんが引き取ってくれ、修理をして動くようになって事務所に飾られてある。
実家を売却する条件の中で、残した不用品は全て処分してもらうこととした。
飾ってあった絵画や版画、アルバムを単身赴任宅に運び、ソファーを自宅で使うようにし、あとの物はトランクルームを借りて置いておこう、と考えていた。
しかし……
トランクルームを借りるのは、1ヶ月で止めた。
どんなに私の思い入れのある物も、私以外の人間にとっては何ものでもない。
思い出は形のある物でなく、心の中にしまっておくものと考え、ほとんどのものを処分した。
2012年11月17日の夕方。1974年8月25日から38年3ヶ月近く、働き続けて止まることのなかったブレーカのスイッチを下ろし、私の実家は心の中の思い出となった。
それ以来、思い出は心の中にしまうもの、と考えていた。
「主人は現職中に癌のため亡くなりましたが、心底信頼のできる上司に出会いその方のお力添えや多くの支えのお陰で最期まで社会人であることができました」
「今、私の上司は癌と戦いながら私に後を継がせる為、体の辛さを口にせず日々仕事を教え込んでくれています。喧嘩ばかりの日々でしたが自分の辛さを語らず部下を育てようとしている上司と明日徳田様の記事をランチの際に話します」
Twitterで思いもしなかったメッセージをいただいたのは、天狼院ライティング・ゼミで尊敬する寺田さんという先輩のことを書いた記事が採用されたときである。
寺田さんは在職中に癌で亡くなられたのだが、その思い出を文章という形にすると、読者の方々から色々な反応をもらった。
寺田さんのずっと後輩にあたるNTTの技術者の方は「寺田さんにお会いしたくなりました」とメッセージを送ってくれた。寺田さんと一緒にお仕事をされた方は「いつも頭が下がる思い出ばかりです」と。
そんな読者の思いを知ることができたとき、思い出を形にするのも悪くない、と考えを改めた。
考えてみれば、私が天狼院ライティング・ゼミで書いた文章は、稲垣潤一さんのコンサートを手伝った時のこと、附属池田小学校の殺傷事件のときに松居慶子さんから暖かいお心遣いをいただいたこと、花總まりちゃんをずっと応援し続けていることなど、自分の思い出を形にしたものが多かった。その思い出に、稲垣さんファンの人達や、松居慶子さん・花總まりちゃんファン仲間が共感して応援してくれる。
思い出を文章という形にすると、その文書を読んだ人達の人生とふれあうことができる。
思い出が文章を通じ、時を越えてよみがえってくる。
実家を売却するとき、建物は壊されることになっていた。が、聞くところによると、あまりに頑丈な建物だったので解体費用がかさむため、内装をリフォームして新たな人が住んでいるようだ。
元実家近くのお寺に墓参りにいくたび、思い入れのある大屋根を見ながら
思い出が形をもって残るのも悪くない、と考える今日この頃である。
《2016年10月執筆》
関連記事
ライティング・ゼミ 私の舞台裏 ~思い出は心の中にしまうものと考えていた~
あの真矢ミキさんですか?《天狼院メディアグランプリ採用記事》
2016年6月から4か月間、人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」に参加し、毎週、メディアグランプリに投稿を続けました。メディアグランプリは、ライターでもある天狼院店主の三浦さんが投稿記事をチェック、基準以上の記事はWeb天狼院に掲載されるシステムです。私は16回の投稿のうち9回が採用されました。
これまで採用されていた記事が天狼院書店のWEBページに掲載されていたのですが、最近、掲載されなくなっていました。残念に思って店主の三浦さんに「ブログに再掲していいですか?」とお問い合わせさせていただいたところ、早速ご快諾をいただいたので、順次再掲していきます。
なお、掲載された記事に関する「私なりの」舞台裏もブログに投稿しております。
「あの真矢ミキさんですか?」
会社のお昼休み、出張みやげの購入ついでに、「和三盆ラングドシャ」を送るべく伝票を書いていると、店員さんに尋ねられた。
このフレーズは、以前、聞いたことがある……
徳島県阿南市にある外資系化学会社に転職し、単身赴任をはじめて4年6ヶ月が過ぎた。
「徳島県阿南市に転職する」と話すと、必ず「日亜ですか?」と聞かれた。
徳島県阿南市にある日亜化学工業は青色LEDが有名なので、半導体が専門の私が転職するには最も自然であろうが、すぐ近くにある別の会社に勤めている。もっとも、この会社も、昔は日亜化学工業に材料を納入していたのであるが、その会社がフランスの会社に買収され、そのフランスの会社がベルギーの会社に買収された、という経緯があるので、日亜化学工業とも関係が無い訳ではない。
阿南市に単身赴任して間もない頃、大学訪問の手土産に困ったとき、地元出身の同僚女性に薦められて菓志道タカイチの「和三盆ラングドシャ」を持参した。「和三盆」という希少糖の高級な響きで先生に喜ばれた。「和三盆(わさんぼん)は、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種である」とWikipediaに書かれている。
「和三盆ラングドシャ」はもちろん純粋に美味しいのであるが、ひとつひとつのパッケージに「和三盆」「徳島 Tokushima Prefecture」「阿南市 Anan City」と書かれているので説明の必要がない。「和三盆ラングドシャ」のバリエーションとして「ストロベリー」「しょこら」ができたが、パッケージに「徳島」「阿南市」の表記がないので、私は基本的にプレーンの「和三盆ラングドシャ」を好んで買っている。
先日、友人に連れられて真矢ミキさんの舞台を観劇した。もう22年前、たまたま出張帰りの飛行機で隣り合わせたのが宝塚歌劇団花組の生徒さんで、彼女に誘われ出演する舞台を家内と観劇したのだが、当時の二番手が真矢さんだった。その後、真矢さんがトップになった「ハウ・トゥー・サクシード」を観劇したのが最後で、生の舞台を観劇するのは21年ぶりであった。
終演後、思いがけず友人と一緒に楽屋を訪問させていただき、少しだけ真矢ミキさんとお話をさせていただいたのだが、想定外のできごととは言え、手ぶらで楽屋に行くとは不覚である。差し入れを後で送るべく、マネージャーさんに名刺をもらった。
タカイチの店員さんに「あの真矢ミキさんですか?」と尋ねられて考えた。
「元宝塚歌劇団花組トップスター」とか「毎朝、白熱ライブ ビビット出演中」とか、真矢ミキさんには色々な形容詞が考えられるはずである。それでも「あの……」だけで話が通じる、ということは、真矢ミキさんは誰もがわかる有名人である、ということなのだろう。
同じフレーズを聞いたのは、1992年1月19日。
テニス仲間だった谷口さんの結婚パーティー二次会での会話である。
「徳田さんに電話をしたら、お母さんに『あの稲垣さんですか?』って言われちゃったよ」
確かに母親から、「稲垣潤一さんから電話があった」と聞いていた。
テニス仲間の谷口さんが稲垣潤一さんのコンサートツアーに参加していた関係から、私は1991年、稲垣潤一さんのコンサートツアーを通訳として手伝った。翌年1月から、以前勤めたことのある大阪の会社に転職したのだが、この日は義理ある谷口さんの結婚パーティーのため二子玉川まで駆けつけていた。
テニス仲間の辻さんの奥様、辻さんの同僚の野間ちゃん、私の後輩のしのぶちゃんと、きれいどころが受付し、稲垣さんもミニライブで数曲披露され、本当に素敵なパーティーであった。
稲垣さんから電話があった背景は、私が年賀状を事務所に送ったので、稲垣さんがその年賀状を見るのが遅くなった、ということらしい。当時は、携帯電話も珍しく、それこそ稲垣さんのような芸能人しか持っていない。私は実家住所と電話番号を年賀状に書いていた。稲垣さんからの電話は年賀状のお礼である。
母親も、私が稲垣さんのコンサートツアーをお手伝いしていたことは知っていた。母親と一緒に、稲垣さんと同じ事務所の井上順さんのディナーショーに行って、ピアノの塩入さんとも挨拶をしている。
が、まさか稲垣さん本人から電話があるとは、夢にも思わなかったに違いない。突然電話を受けて、稲垣さんを形容する適切な言葉が思い浮かばなかったのは仕方がないかと思うが、本人に「あの……」と言うのも、いかがなものか。
母親から「稲垣潤一さんから電話があった」と聞いて、私に直接電話がかかってくるのは、よほどの一大事か?と思ったが、その後は連絡が無かったので、話を聞くまで経緯が判らなかった。
それにしても稲垣さんは義理堅い人だ。
今の会社に転職当初は、3年くらいで宝塚の自宅に近い三宮に転勤する?という話もあったが、徳島県阿南市での単身赴任生活も4年6ヶ月が過ぎた。
私は未だ「あの徳田潤」で通るほどの有名人にはなっていないので「徳島県阿南市に単身赴任中の」というブランディングが定着するまでは、美味しい「和三盆ラングドシャ」のある徳島県阿南市で、単身赴任生活を楽しみたいと考えている。
《2016年9月執筆》
関連記事











