歴史は繰り返す風刺画で観る日露戦争 | 戦車兵のブログ

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冒頭に掲げた画像は20世紀初頭の世界情勢を表す風刺画である。

 

日露戦争で欧米列強が日本にロシアの焼き栗を奪って来いと日本に行かせる風刺画だ。

 

 

そして現代・・・・、欧米列強はアメリカ、EU諸国、NATOとなってウクライナを使ってロシアと戦わせようとしている。

 

日露戦争では日本は勝利したが、ウクライナは勝利できるだろうか?

 

ロシアにとってウクライナはEUやNATO諸国との緩衝地帯である。

 

だからロシアにしてみればウクライナがNATOに加盟すると喉元に切っ先を突き付けられたことになり看過できなかったのだろう。

 

20世紀初頭ではロシアの南下政策で満州や朝鮮半島がロシアに狙われていた。

 

もしロシアが朝鮮半島や満州を掌中に収めたら、日本にとって緩衝地帯は無くなりロシアが日本へ侵略してくるかも知れないという危機感があった。

 

ロシアは日本人から見ればヨーロッパだが、ヨーロッパ人から見ればアジア人で・・・・。

 

 

絵の題材は日露戦争であり、それが格闘技にな ぞらえて描かれている。

 

交戦国であるロシアと日 本は選手としてリングに立ち、関係国は観客とし てリング脇に座っている。

 

 ロシアのトランクスには「ヨーロッパのチャン ピオン」、日本のそれには「アジアのチャンピオン」 とフランス語で書かれている。

 

リングの床には東 アジアの地図が広げられ、その上でロシアが両足 を「満洲」に載せているのに対し、日本は「日本」か ら右足を「コリア」に踏み出している。 

 

 

観客について述べると、向かってロシアの右に、 シルクハットを被り腕組みしている男性がイギリ ス、その背後で星条旗が描かれた帽子を被り右手で握り拳をつくっている男性がアメリカ合衆国、 日本の右に、軍服を着て角状の頭立てがある兜を 被っている男性がドイツ、ロシアの左に、左手を 膝に載せ頬伺をつく姿勢をとっている女性がフラ ンス、そのフランスのすぐ背後で四角い帽子(ト ルコ帽)を被りフランスと同じ方向をみている男 性はオスマン帝国と思われる。

 

背景にある塀の上 から試合をのぞいているのは中国(清)であろう。

 

 

日露戦争の時代背景を説明する。

 

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

 

 

当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。

 

1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結。

 

大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。

 

 

大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

 

一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。

 

戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

 

 

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。

 

ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。

 

これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

 

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。

 

 

朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア・フランス・ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。

 

世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。

 

ところがロシアは露清密約を結び、東清鉄道を敷設し、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し(旅順大連租借条約)、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満州への進出を押し進めていった。

 

 

 

1900年(明治33年)、ロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。

 

ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。

 

ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。

 

ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。

 

なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる。


 

日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。

 

そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。

 

日英同盟によってロシア帝国は満州から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。

 

 

 

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。

 

しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。

 

さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。

 

常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。

 

ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。

 

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

 

 

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。

 

またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。

 

そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

 

同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

 

 

ロシアの風刺画は日本なんて軍事力で一蹴できると馬鹿にしているものばかりだ。

 

軍事力で恫喝すれば日本は言う事を聞くだろうと高を括っている。

 

これウクライナへロシア軍が侵攻する前と同じ思考だ。

 

日露戦争前の日清戦争では朝鮮半島を巡り、日本と清国が朝鮮という魚を釣ろうとしているのを橋の上からロシアが釣った魚を奪おうと虎視眈々と狙っている「漁夫の利」という風刺画だ。

 

 

当時、眠れる獅子と呼ばれた清国を東洋の小国日本が日清戦争を戦い勝利したことにより、欧米列強はロシアと日本を戦わせようととしていた。

 

巨大な軍事力をもつ大国ロシアと極東の小国日本が戦争して日本が勝つと思った国はなかったろう。

 

 

ジョルジュ・ビゴーが描いた風刺画は有名だ。

 

ロシアに刀を突きつける日本と、その背中を押すイギリス、そして高みの見物をするかのようなアメリカが描かれている。

 

日本の必死そうな顔とは対照的にロシアはたばこを吸って余裕そうですよね。

 

なぜ日本がこのような状況に置かれたかというと、この2つの大国は外交的な面だけでなく経済的な面でも日本を支えていたので、どうしても反抗するということはできませんでしたし、仲良くしておきたかったのです。

 

英米は日本の後ろについている形になっている。

 

そして事態は日露戦争へ。

 

 

日露戦争で日本は勝利をしたが、日本は楽勝で勝てた訳ではない。

 

風刺画のように欧米列強は高みの見物で日本人(明治天皇か?)がロシアの熊と戦っている。

 

今もウクライナも同じなのかも知れない。

 

歴史は繰り返す。