昭和の参謀 瀬島 龍三陸軍中佐 | 戦車兵のブログ

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瀬島 龍三(1911年(明治44年)12月9日 - 2007年(平成19年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。

 

陸士44期次席・陸大51期首席。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。

 

最終階級は中佐。

 

戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職に就任し、「昭和の参謀」と呼ばれた。

 

 

1911年(明治44年)12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎後備役歩兵少尉の三男として生まれた。

 

瀬島龍三著「幾山河」によると、1924年(大正13年)に北陸で行われた陸軍特別大演習を見たのがきっかけで、難関東京陸軍幼年学校を受験、合格した。

 

 

砺波中学校第16回生(現・富山県立砺波高等学校)を中退し、東京陸軍幼年学校に入校、陸軍士官学校予科を経て、1932年(昭和7年)に陸軍士官学校本科第44期を2番/315名(同期トップは騎兵科原四郎)で卒業して恩賜の銀時計を拝受した。

 

同年10月に陸軍歩兵少尉に任官、富山歩兵第35聯隊第1大隊第1中隊附となる。(聯隊長徳野外次郎歩兵大佐・16期、大隊長花谷正歩兵少佐・26期、中隊長新開長太郎歩兵大尉・30期)

 

 

1938年(昭和13年)12月8日に陸軍大学校第51期を1番/51名で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。

 

御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。

 

その後、1939年(昭和14年)1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。

 

同年11月には参謀本部幕僚附(作戦課)に補され、間もなく参謀に昇格して開戦前は対ソ作戦を担当。

 

翌1940年(昭和15年)には関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。

 

 

1941年(昭和16年)12月8日に大東亜戦争が開戦。開戦を意味する暗号「ヒノデハヤマガタ」は、瀬島参謀が考案したものである。

 

開戦後は南東太平洋方面における作戦を担当、1945年(昭和20年)7月に関東軍参謀に転じるまで同職にあって、前線に出される多くの作戦命令を起案した。

 

 

ほとんどの期間を、参謀本部部員(作戦課)として陸軍の中枢にいた瀬島は、舅・松尾伝蔵の義兄であり、戦争の早期終結のために動いていた岡田啓介(元首相、海軍大将)と連絡を保った。

 

1944年(昭和19年)12月から翌年2月まで、「瀬越良三」の変名を用いて、外交伝書使としてモスクワへ出張した。

 

1945年(昭和20年)1月15日に島村矩康(36期、大佐。大本営陸軍参謀兼聯合艦隊参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀であった)が戦死すると、その後任に瀬島が選ばれ、同年2月に聯合艦隊参謀を兼務した。

 

 

同年3月、同期一選抜の一人として中佐に進級した。

 

菊水作戦(同年4月 - 6月)に際し、南九州に出張して、同地に展開していた第6航空軍を指導した。

 

同年6月末まで、聯合艦隊参謀として同僚である千早正隆(海兵58期)と共に本土決戦準備のため日本各地を調査した。

 

特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。

 

瀬島は、迫水久常(鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという。

 

1945年(昭和20年)7月1日、関東軍参謀に補され、満州へ赴任。

 

なお、前任者は皇族である竹田宮恒徳王陸軍中佐であった。

 

同年8月15日の日本の降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。

 

極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥

 

 

日本側の参加者は、関東軍総参謀長秦彦三郎中将(陸士24期)、作戦主任瀬島中佐、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。

 

関東軍総司令官山田乙三大将

 

 

このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎中将らとともに捕虜となった。

 

この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。

 

 

その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留されることとなる。

 

このとき本来捕虜(但し、ジュネーブ条約において。ソ連はジュネーブ条約には加盟していなかったので、捕虜とするには議論の余地あり。)としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。

 

瀬島は高橋ブリガードに配属されたが、特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の高橋重隆の配慮で左官の仕事が宛がわれた。

 

後にこのときのことを諧謔として「佐官が左官になった」と述懐している。

 

 

この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳中将(20期首席、関東軍鉄道司令官)・松村知勝少将(33期、総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。

 

ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められる。

 

さらにソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出した。

 

瀬島はこれも断ったがソ連は家族の所在を突き止め面会を強制した。

 

なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳、松村知勝と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。

 

その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。

 

裁判後シベリアに戻され1950年代後半に入るまで抑留生活を余儀なくされた。

 

保阪正康は、関東軍がソ連によるシベリア抑留を了承していたかどうかなど、瀬島でないと答えられない疑問について何度聞いてもほとんど答えず史実に対して不誠実であったことを指摘している。

 

1947年(昭和22年)末から1950年(昭和25年)4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、種村佐孝(37期、大佐)、朝枝繁春(45期、中佐)、志位正二(52期、少佐)らとともに収容されていたとみられる。

 

 

1956年(昭和31年)、シベリア抑留から帰還した。

 

アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した。

 

設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。

 

また、砺波中学校の同級生であり元郵政相の片岡清一から、政界入りの誘いもあった。

 

瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。

 

入社前に瀬島は入社面接を拒否し、その代わりに手紙を送っている。

 

面接を拒否した理由は「そこまで落ちぶれたくないというプライドだった」と後に語っている。

 

しかし契約内容は嘱託採用、給与は係長待遇、契約は毎年更新という内容だったが、妻の清子はこれを喜び、採用通知書を神棚に飾った。

 

入社時の伊藤忠商事の社長は小菅宇一郎だったが、ある日小菅に呼び出された瀬島は「この会社には商売をする者は腐る程います。だから瀬島さんは商売はしなくていい。この先、日本も世界も大きく変わってゆく中で、あなたには商社としてどう進んでいけばいいのか?そういう観点から助言や補佐をしてもらいたい」と伝えられた。

 

元軍人でビジネス用語に不慣れだった瀬島は「こりゃ金利を覚えないでいいな」との笑い話を残している。

 

1960年、伊藤忠商事航空機部長になる。

 

入社3年目の1961年(昭和36年)には業務本部長に抜擢され、翌1962年(昭和37年)に取締役業務本部長、半年後に常務となる。

 

その後も、同社がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年(昭和43年)に専務、1972年(昭和47年)副社長、1977年(昭和52年)副会長と昇進し、1978年(昭和53年)には会長に就任した。

 

1981年(昭和56年)に相談役、1987年(昭和62年)に特別顧問に就く。

 

この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「一九三〇年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」という講演を行った。

 

 

田中角栄とは田中が1971年(昭和46年)、第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だったとき知り合ったとされる。

 

児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったといわれる。

 

実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢される。

 

瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行うようになり、永野の参謀として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。

 

1981年(昭和56年)、永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫、田中角栄らの推薦、あるいは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く。

 

土光敏夫会長のもとで参謀役として働き、「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、政財界に影響力を持つようになった。

 

また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。

 

 

ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする説が複数の書籍で唱えられている。

 

1984年(昭和59年)に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。

 

2000年(平成12年)に伊藤忠商事特別顧問を退任。

 

2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱はとても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」といった。

 

 

同年5月30日、瀬島は、同台経済懇話会会長として安倍首相に提出した提案書の中で、美しい国づくりの大テーマとして、近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。

 

クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構をつくり、関係産業各社と電力会社の協力を推進すること、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)、ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を連名で提出した。

 

 

6月21日、妻の清子が老衰で90歳にて死去。

 

それから3ヶ月足らず後の9月4日、妻を追うように老衰のため東京都調布市の私邸において95歳にて死去。

 

死後、従三位が贈られた。

 

同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。

 

 

阿南陸相の義弟で軍事課の竹下正彦中佐(陸士42期)によれば、瀬島の案文は手を入れる必要がないほど完璧で、無修正のまま班長、課長、部長、参謀総長の判子が押されたほどで、竹下は「瀬島君は作戦課の若手課員だったが、我々は陰で瀬島参謀総長と自嘲気味に呼んでいました」と語っている。

 

瀬島は「私は起案する前に上司の意図がどこにあるかをじっくり考え、私情を入れずに起案していたので、結果的にフリーパスになっただけですよ」と答えている。

 

秦郁彦は、このような瀬島は同じ作戦課出身でも独断専行の横紙破りを重ねた辻政信(陸士36期首席)とは対照的としている。

 

 

終戦直前、瀬島と4ヶ月間行動を共にした千早正隆海軍中佐は「本当に心を打ち明けられた陸軍関係者は瀬島中佐だけ」としているが、太平洋戦争における日本陸海軍の協力体勢についての瀬島の戦後証言には不満を述べている。

 

日本海軍史研究家の戸髙一成は、「海軍では、瀬島龍三の名前を聞いただけで「あいつは嘘つきだから」と即座に反応するような人もかなりいました。

 

「瀬島龍三の言うことは、俺は信用しない」と、直接言う人がいたのです」と書いている。

 

 

 

保阪正康は、瀬島はしばしば自らを大物に見せるトリックを使い、たとえば山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公は実際には複数の人間を総合して造形したものであるのに、同作の影響によって瀬島だけがモデルであるとのイメージが世間に定着していったことを指摘している。

 

野地二見は「瀬島を批判する評論家たちは、参謀本部での作戦計画は開戦から終戦まで、まるで瀬島が全て計画し、それが敗戦に導いたかのように思ったりしている。これこそが瀬島認識の根本的誤解であり、とんでもない瀬島大参謀神話の元になっている。これは陸軍の統帥の中枢である参謀本部の伝統、組織、能力、そして作戦・計画作成の実態について、あまりにも無知と言わねばならない。」と批判し、作戦課での一少佐にでしかない瀬島は自ら計画を作り決定する立場ではなかったし、記録役という班長補佐役の仕事を通じて各作戦計画について知ることができたに過ぎないと述べている。