自衛隊では普通科(歩兵)を戦車に乗せて移動することを戦車跨乗と呼んでいる。
それは戦車に普通科隊員を跨乗させて敵陣へ機動打撃とか突撃することではない。
単にに普戦協同で移動するのに戦車と普通科が一緒に行動するのに徒歩と戦車では機動力が違うため、戦車に普通科隊員を跨乗させて移動する手段といった方が現実的だ。
私も何度かそういう訓練をしたし米兵を跨乗させたこともある。
ただね、知らない人は行軍するより楽だとか思うらしいが、真夏の戦車のエンジン室上は灼熱地獄だからね。
熱いよ、銃剣の鞘が溶けたとか、掴むところが限られるから落ちそうだとか・・・。
戦車試乗とは違うからね。
戦車乗員でも移動で戦車の車外に跨乗することがある。
「車外1」とか言うがよく乗るのは審判とか教官とかだね。
冬はエンジン室の上暖かいよ、濡れて凍った手袋が直ぐに乾くし・・、ただ排煙で目が痛い・・・・・・・、あれすっごく健康に悪いね。
タンクデサントは、戦車にまたがって移動したり戦闘に参加する歩兵の戦術である。
戦車跨乗部隊のことをтанко-десантники, tankodesantnikiという。
第二次世界大戦中のソ連赤軍などで行われたのがよく知られている。
通常、戦車は戦場では随伴歩兵を伴って運用される。
これは、戦車単独では隠蔽状態の歩兵や砲兵を発見しづらく、また、発見してもただちに制圧できるとは限らないため、彼らの対戦車兵器によって攻撃を受けてしまうからだ。
つまりは戦車は、視界が狭く、機動や俯角に制限があり、さらには同時に対処できる目標が限られるため、随伴歩兵の索敵・制圧力を必要とするのである。
しかし、随伴歩兵が徒歩のままでは戦車の機動速度についていけないという問題がある。
また、随伴歩兵の移動速度に戦車の速度を合わせたのでは、戦車特有の機動性を発揮できない。
そこで、通常は歩兵が軽車両や装甲車両などに搭乗して、機動力のある機械化歩兵(自動車化歩兵)として戦車に随伴する。
何らかの理由により随伴歩兵用の車両が用意されなかった場合には戦車の上にまたがり、しがみついて移動することがある。
それを戦車跨乗と呼ぶ。
そしてこれがタンクデサントである。
通常は移動時だけ戦車に登っているが、そのまま戦闘に突入させる場合もある。
タンクデサントの長所と短所
長所
戦車にとっては周囲警戒の目と反撃のための戦力が車上に存在することになるため、戦車の生残性向上が期待できる。
また、戦車兵にとっては防衛拠点構築や野営を手伝わせることができて負担が減る。
戦車が歩兵を随伴させる上で、タンクデサントは歩兵のための車両が省ける。
短所
タンクデサントを行うのは、なんら保護されない生身の兵士であるから、攻撃に脆弱で、砲撃や銃撃により容易に死傷する。
しかも、最も目立つ上に隠れる場所の無い戦車の上に乗っているため、簡単に狙い撃たれてしまう。
また、歩兵が乗る事を前提としていない場所にしがみつくので疲労が大きく、ともすれば振り落とされてしまう。
戦車の方も急激な機動や砲塔の旋回を行うと歩兵が転落しかねないので動きに制約を受ける。
戦史上のタンクデサント
ソビエト連邦の赤軍
ノモンハン事変や第二次大戦のころの赤軍ではタンクデサントが多用され、広く見られた。
当時のソ連は戦車などの主力兵器に生産力の大半を消費し、歩兵に供するべき軽車両の生産は極めて少なかった。
補給などに必要最低限な車両も米国のレンドリース法による供与に頼っていたほどである。
さらにソ連は、偵察用に装甲車を配備する一方、ドイツのSd Kfz 250/251や、アメリカのM3ハーフトラックのような装甲兵員輸送車の開発を怠っていた。
そのため、十分な歩兵を戦車に随伴させることができず、戦歩分離された状態で戦車部隊が戦闘に突入し、対戦車攻撃によって大損害を受けることが多くあった。
それへの窮余の策としてタンクデサントが多用され、一般的な運用法と化していた。
こうなるともはや一時的な方策ではなく、はじめから運用が前提とされているところがあり、戦車にはタンクデサント用の取っ手がつけられた。
また、赤軍はタンクデサントを敵の塹壕に手っ取り早く歩兵を送り込む手段とみなしていた節があり、跨乗させたまま戦闘に突入することも多かった。
このような理由からタンクデサントを行う兵士の死傷率はとても高く、平均寿命は2-3週間と言われる。
消耗品として懲罰大隊(1942年から終戦までに実に1,049個大隊も編成)の兵士によって構成されることが多く、実際にタンクデサントが多用された戦争後半ほど懲罰大隊の編成数も比例するように増加している。
そのため、死傷率を少しでも下げようとSN-42のような金属製鎧が配備されたりもしたが、あまり効果があったとは言い難い。
戦後のソ連軍は、タンクデサントの犠牲の大きさに対する反省として装甲兵員輸送車の生産に力を入れ、BTR-40/BTR-152/BTR-50/BTR-60/BTR-70/BTR-80などを開発した。
しかし、ソ連軍の装甲兵員輸送車や歩兵戦闘車の多くは居住性や生存性に問題があり、兵はことさら車上に乗ることを好んだ。
ただし、ソ連軍の戦闘教義ではこれらの行為は容認しておらず、訓練も行われていない。
戦後の訓練風景の映像ではT-54/55系などに乗った兵士の姿が見られたが、これは、見た目の勇ましさを表現したプロパガンダであり、実戦で行われることはなかった。
第二次大戦中の日本軍
第二次世界大戦中の日本軍では、兵員輸送車を配備する国力がなく、トラックも不足していたため、歩兵が戦車に便乗しての移動がしばしば見られた。
全般的に小さい日本戦車には跨乗が難しかったため、九五式軽戦車の後部に空のドラム缶を取り付け、そこに歩兵を跨らせるなどの工夫が行われた。
跨乗が主に前線への移動のために行われた点では他国と同じだが、戦車隊が敵陣に切り込みを行う際に、跨乗したままの歩兵が伴う事が度々あった。
第二次大戦後
ベトナム戦争時のアメリカ軍、アフガニスタン紛争でのソ連軍、チェチェン紛争でのロシア軍でも、装甲兵員輸送車内部の兵員室ではなく車上に乗って移動することがよく見られた。
これは、地雷に巻き込まれる事を防ぎ、装甲兵員輸送車への攻撃からすばやく逃げるためである。
RPGシリーズのように安価で強力な携行対戦車兵器が普及すると、歩兵戦闘車の防御力不足が問題になった。
当時の兵員輸送車は浮航性を持たせるために極端に軽量化されており、装甲が薄かったり、アルミ製で、対戦車兵器や機関砲の貫通をやすやすと許した。
ある程度は装甲を強化することで対応したが、出力の余裕から十分に強化できなかったり、追加装甲のせいで視察窓がふさがったりした。
軍によっては予算上の理由や浮航性を必要とする用兵のため未強化のままの運用されることも少なくない。
そのため、車内で一網打尽にならないために車外に跨乗して警戒することを、兵士たちはしばしば選んだ。
特にM113の初期型やBTR-60/70など、ガソリンエンジンの車両は容易に燃料が引火して爆発炎上するため、兵に嫌われた。
初期のBMPシリーズのように燃料タンクが剥き出しで危険なものも同様である。
また、20世紀末になると各国軍で砲弾片に有効なボディアーマーが普及し、タンクデサント最大の弱点である砲爆撃からの脆弱性が軽減された。