平頂山事件 | 戦車兵のブログ

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1932年9月16日平頂山事件が起きた日。

 

平頂山事件とは、1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、抗日ゲリラと通じていたとされる楊柏堡村付近の平頂山集落の住民の多くを殺傷した事件である。

 

事件を紹介する前に事件を起こした井上清一中尉について知らなければならない。

 

井上中尉は満州へ渡満する時に妻が自刃している。

 

 

井上中尉夫妻は大阪住吉区に住んでいた。

 

井上中尉は数えの29歳、千代子夫人は岸和田高女を卒業したばかりの21歳。

 

結婚した翌年の昭和6年12月13日、井上中尉が自宅玄関まできて、「井上は終日連隊にあり、御用の方はその方に」と貼り紙がしてあるのを不審に思った。

 

玄関をあがるとただならぬ喘鳴がきこえる。

 

奥座敷に駆け込んだ夫がみたのは、六畳の部屋に白木綿をしきつめ、刃渡り1尺の白鞘の短刀で右咽頭部を切り、ほとばしる鮮血の海によこたわって最後の息をひきとろうとしている妻の姿であった。

 

戦地に赴く軍人と死をもってその夫を送る妻。

 

この自決事件は、昭和6年末にあっては、戦争に傾斜しようとする時代の趨勢をさきどりし、女性のあるべき役割を示唆するのに美談とされた。

 

井上中尉は「出発を延期することは自害した妻の意思に反する」と言って、翌13日予定通り出発する。

 

事件が公表されたのはこの後である。

 

 <…壮烈崇高鬼神を泣かしむ故女史の夫君に対する餞別死は日本婦道を中外に宣揚したるものにして大日本全国民を感激せしめたり。その薫烈たる遺芳は永く世風婦道の亀鑑たり…>

 こうして美談が仕立てられ、四つの映画会社が陸軍当局の許可を得て映画化までされた。

 

井上清一は朝鮮で勤務中の昭和10年に再婚したのち、陸士の区隊長をつとめ、18年1月に陸軍大学校専科を卒業。

 

その後、参謀として広島県呉市に勤務、

中佐で敗戦をむかえている。

 

井上は、44年8月にパーキンソン氏病で亡くなっていた。

 

日本中に美談とされた妻の自刃で有名な井上中尉は平頂山事件を起こすこととなる。

 

 

事件の誘因となったのは、1932年9月15日の反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍」による、撫順炭鉱襲撃事件である 。

 

この背景には、満州国の建国宣言(1932年3月1日)以来活発化していた、反満抗日運動の存在がある。

 

民間人居住区を狙ったこの襲撃に対し、周辺居住者を炭坑内や公会堂に避難させ、大人だけではなく青年団員や中学三年生以上(いずれも民間人の若者)を緊急に招集し、市街地への侵入を必死で阻止した。

 

当初放火を主としていたゲリラ側は戦術の不手際により、作戦が成功したとは言い難いまま退却したが、日本側も、炭鉱所所長含む死者5名、重傷6名、総額21万8,125円の被害を受けた。

 

 

翌日の撫順守備隊の捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され、当集落がゲリラと通じていたとの判断を下した。

 

16日朝、ゲリラ掃討の目的で40名程の部隊が平頂山村に侵入し、同村住人のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃し、また、生存者を銃剣で刺殺するなどして住人の大半を殺害した。

 

事件後に旧日本軍守備隊や撫順炭鉱関係者らは、殺害された住人の遺体を崖下に集めて焼却した上、崖を爆破して遺体を埋め、その周囲に鉄条網を張るなどして立ち入ることができないようにした。

 

 同集落が(または同集落の一部が)ゲリラに関与していたかどうかについては現在、否定も肯定もされてはいない。

 

 

事件後、撫順周辺の中国人労働者に動揺が走り、撫順を離れるものが大量に出た、と当時記録されている。

 

中国国内では新聞などで報道され、国際連盟においても、1932年11月24日、国民政府の顧維鈞首席代表が問題にしたが、中国側の追及不足と日本側のあくまで掃討作戦の一環であるなどとする意見に、当時はそのまま終息している。

 

被害者人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠にしたとして3,000人を主張している。

 

また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数を400-800人と推定している。

 

なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。

 

ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。

 

いずれも確証はなく、被害者の人数については類推の域を出ない。

 

 

この事件は、終戦後まもなく、国民政府の戦犯法廷で裁かれた。

 

直接実行者である井上清一中尉(当時)をはじめとする軍関係者は終戦までの間に既に他所へ移動しており、終戦時の国民政府による身柄確保を免れたが、代わって現地に留まっていた炭鉱関係の民間人11人が逮捕された。

 

1948年1月3日、元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された 。

 

同年4月19日に刑が執行、残り4人は事件と関係が薄いとの理由で無罪となった。

 

死刑になった7人も事件とは無関係とされた。