韓国が潜水艦ミサイル発射実験 成功と報道、北朝鮮に対抗 | 戦車兵のブログ

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韓国海軍で最新鋭の潜水艦が浸水・・・いや進水したとニュースになっている。

 

潜水艦の艦名は御多分に漏れず反日の英雄の名前らしい。

 

名前を聴いても知らんけど・・・・島山安昌浩は優れた組織家で1907年29歳の時秘密結社組織である新民会を結成し日本からの独立運動を展開した人物らしい。

 

記事の後半でちょっと調べたので興味があったら読んで下さい。

 

それにしても・・・・・対北朝鮮向けじゃなく対日向けに作ったのだと言われているけれど一旦潜航したら二度と浮上しないで欲しい潜水艦だね。

 

以下共同通信より転載

 

 

【ソウル共同】韓国紙、東亜日報は7日、韓国軍が最近、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の発射実験に成功し、技術開発が「事実上完了した」と報じた。

 

 

SLBMの実戦配備に向けて潜水艦開発を進めている北朝鮮に対抗する狙いだが、刺激を避けるために発射実験は非公開で実施されたという。

 

 

 

東亜日報によると、8月に就役した3千トン級潜水艦「島山安昌浩」から、ミサイルを圧縮ガスで射出後、水中から空中に出た段階でエンジンに点火する「コールドローンチ」方式の実験が行われた。

 

具体的な時期は不明。既に2回実施され、今月中旬の3回目の発射実験後、実戦配備に移るという。

 

                                                   (共同通信)

                                                    

 

島山安昌浩級潜水艦 は韓国海軍の通常動力型潜水艦の艦級。

 

 

韓国海軍はこれまでドイツの209型潜水艦(張保皐級)及び214型潜水艦(孫元一級)の建造・運用をしており、これらを通じて得たノウハウを用いて国産化率と性能の向上を目指して計画された。

 

また、島山安昌浩級はKSS-III(張保皐-III)とも呼ばれこれはKSS-I(209型)とKSS-II(214型)に次ぐ潜水艦取得計画であることを示している。

 

島山安昌浩級では特に3,000t級と通常動力型潜水艦としては大型な船体を有することによって209型(1,000t)及び214型(2,000t)と比較して活動時間の延伸し、VLSにより攻撃力が著しく増加する。

 

ただし、対北朝鮮ではここまで大型である理由に乏しく、搭載されるVLSと合わせて対日本を意識した装備である疑念がある。

 

 

2019年10月10日、韓国海軍の沈勝燮海軍参謀総長が原子力潜水艦の必要性に言及した。

 

韓国海軍が原子力潜水艦について公に言及するのは2003年に盧武鉉政権下で鉠永吉国防部長官が原子力潜水艦3隻を2020年前に実戦配備するという「362事業」を報告して以来。

 

また、記事はバッチ3を原子力潜水艦の候補として挙げており、7年内に1兆3000億ウォン(約1180億円)-1兆5,000億ウォンの予算(362事業に関わった海軍大佐は4,000トン級の原子力潜水艦は1隻につき約1兆6000億ウォン必要としている)で国内開発が可能としている。

 

他方、韓米原子力協定のために原子力潜水艦は難しいという意見もある。

 

2021年8月13日、大宇造船海洋にて一番艦「島山安昌浩」の就役式が行われた。

 

1年間の評価期間を経て、2022年に正式配備り予定。

 

安 昌浩

 

 

艦名は安昌浩の名前からきている。

 

安 昌浩(アン・チャンホ 1878年11月9日 - 1938年3月10日)は、朝鮮の朝鮮独立運動家。

 

号は「島山」(トサン)。

 

朝鮮平安南道に生まれ、イギリス人牧師ホレイス・グラント・アンダーウッドの救世学堂で学ぶ。キリスト教徒。

 

大韓帝国における愛国啓蒙運動に従事したあと渡米したが、1905年に日韓保護条約が締結されたことを知り帰国した。

 

1907年、新民会を組織して、各地での講演会や大韓毎日申報を通した啓蒙活動や、大成学校・五山学校設立等の教育事業、磁器製造株式会社設立等の実業活動、中国での独立軍基地建設事業などの運動を展開したが、日韓併合の直前に亡命。

 

新民会も1911年に百五人事件に関わったことで壊滅させられた。

 

 

中国経由で再びアメリカに亡命し、興士団(フンサダン)を組織した。

 

1919年には亡命朝鮮人によって中華民国上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し内務総長を務め、朝鮮独立運動を行う。

 

しかし、地域派閥や党派の争いが絶えず、畿湖(京畿道と忠清道)出身でも両班でもなかったため、臨時政府内の主流とはなれず、彼の意見に耳を傾けるものはほとんどおらず、1921年に内務総長を辞任した。

 

 

その後は満州に渡り、独立運動の根拠地としての理想村を計画したが、1931年に満州事変が勃発したことにより頓挫。

 

尹奉吉

 

 

さらに、上海事変で日中間が軍事衝突をしていた1932年4月29日に、上海の虹口公園で尹奉吉が起こした上海天長節爆弾事件に関与したという嫌疑で日本軍に逮捕され、朝鮮へ連行されたうえで懲役4年の実刑を宣告され服役していた。

 

1935年に仮釈放となり隠居した。

 

しかし1937年6月に発生した修養同友会事件で逮捕され、収監中に病状が悪化し釈放されるも、肝硬変により京城帝国大学付属病院で死亡した。