映画音楽の作曲家として知られている伊福部 昭。
有名なのが「ゴジラ」だ。
伊福部 昭(1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。
ほぼ独学で作曲家となった。
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。
位階は従四位。
1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。
小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。
同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。
代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
また、この頃から父親に『老子』の素読をさせられる。
1926年(大正15年)、12歳。
札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。
中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。
初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。
地元で展覧会も開いたという。
その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める。
さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた。
1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。
文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。
さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する。
この頃後の作曲家早坂文雄と出会う。
1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。
アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。
結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。
このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
- 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
- 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
- 北海道の厚岸町から応募してきたこと
との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。
とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。
結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。
賞金は300円であった。
1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた。
研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している。
また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという。
航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった。
1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居。
その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。
独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。
特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。
そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。
「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。
1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして……」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。
平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部の作品に対する評価は手厳しいものであったと述懐している。
映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。
その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられた。
しかし小杉が離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。
黒澤が脚本を手がけ、製作にも関わっていたが、あるシーンに入れる音楽のことで伊福部と監督の谷口が対立した際、黒澤は全面的に伊福部を支持している。
この時は結局伊福部の主張が通った形となったが、出来上がった音楽は谷口をも十分納得させるものであった。
伊福部は東宝作品の音楽を数多く手がけたが、黒澤明作品は、『静かなる決闘』1作のみである。
映像と音楽の弁証法的な融合を目指した黒澤にとって、伊福部の訴求力・完結性の高い音楽は相容れないものであったと考えられる。
伊福部自身も、黒澤作品における音楽の付けにくさについては後に証言している。
だが、音楽にも造詣の深い黒澤は、作曲家としての伊福部の能力を非常に高く評価しており、『静かなる決闘』における土俗的な音楽についても一定の評価をしていた。
1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介とこたつで酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。
「またもらい酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。
その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。
伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。
この男こそ特技監督の円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身であった。
のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場でバッタリ再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。
円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが、特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた。
これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている。
また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している。
独学で音楽を学んだ偉大な作曲家であった。