沖縄戦終結 | 戦車兵のブログ

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1945年6月23日、沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。

沖縄戦の組織的抵抗が終結したとされる日。


沖縄戦は、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。



連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦。


琉球語では、Ucinaaikusaともいう。


太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。




沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日ないし6月23日に終了した。


アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。


日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった。


第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。


海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。

1945年5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決した。


その後も掃討戦は続き、7月2日になってアメリカ軍が沖縄戦終了を宣言し、降伏調印式が行われたのは9月7日である(沖縄戦の最終的な終結)。




陸海空において日米の大兵力が投入され、アメリカ軍最高指揮官が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次大戦における最激戦地のひとつとなった。


使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。


このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。

地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと表現される。


残された不発弾は、70年を経た2015年でも2,300トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。


1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。





沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。

その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。

日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人であった。

なお、戦後長らく「国内唯一の地上戦」と称されていたが、正確な表現ではない。




5月25日に、それまで連合艦隊の指揮下で沖縄方面で航空作戦を行ってきた陸軍第六航空軍は、連合艦隊の指揮下を脱した。


その後6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事となった。


6月5日にアメリカ軍第24軍団が、日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。


それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった。




日本軍は戦力不足ながら、防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。


八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を3日間にわたり足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。


西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。


丘陵よりの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。


丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。





それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。


この間にアメリカ軍の死傷者は1,050名、その中には、日本軍の狙撃で戦死した海兵第22連隊長のハロルド・ロバーツ大佐も含まれていた。




アメリカ軍は日本兵や住民に対してビラ800万枚を撒いて投降を促した。


バックナー軍司令官自らも牛島軍司令官宛に親書で降伏勧告を行ったが、6月17日に親書を受け取った牛島は一笑に付して拒絶した。


降伏勧告拒絶の翌日である6月18日、バックナーは、牛島からの回答を受け取る間もなく、喜屋武半島の最前線視察中に日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した。


これは2014年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した唯一の事例である。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。




アメリカ第10軍の指揮は、急遽ロイ・ガイガー少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となった。


また、翌日には第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将も日本軍の狙撃により戦死している。




日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。

この頃になると、日本軍では飢餓や病気により一日4,000名の兵士が亡くなっていた。

 

 


組織崩壊も始まり、今まで殆ど見られなかった集団投降も増えてきた。

6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした。



6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。

これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。

24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し全滅。

大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。