V号戦車パンター | 戦車兵のブログ

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V号戦車パンターは、第二次世界大戦中のドイツの中戦車(45トン級)である。

 

後に「V号戦車」という名称は廃止され、「パンター戦車(豹戦車)」が正式名称となる。

 

 

 

1938年、ドイツ陸軍は戦車隊の中核を担う主力中戦車として、III号戦車とIV号戦車を統合した新戦車開発計画を立ち上げた。

 

当初の計画では新戦車は重量20トン級、5cm級戦車砲装備の中戦車として計画名称「VK20.00」が与えられ、1939年10月、ダイムラー・ベンツ社が開発主体に選定されている。

 

後にクルップ社が加わり、更に1940年にはMAN社が参加し、各社に設計案提出が求められ、それぞれVK20.01(D)、VK20.01(K)、VK20.01(M)の計画名称が与えられた。

 

 

 

各社の設計案より最終的に選定された車両には「Pz.Kpfw.V(V号戦車)」の制式名称が与えられることも内定し、設計作業が進められていたが、1941年に独ソ戦が開始されると、T-34戦車を始めとしたソ連戦車に対しIII号/IV号戦車は苦戦する。

 

 

この事態に衝撃を受けたハインツ・グデーリアン将軍は、後に「戦車委員会(Panzerkommission)」と呼ばれることになる調査団を東部戦線に派遣、T-34の評価を行った。詳細な調査の後、戦車委員会は、T-34の最大の長所は

  1. 避弾経始を取り入れた傾斜装甲を採用している
  2. 幅広の履帯を有し、柔らかい土の上での機動性を向上させている
  3. 装備する76.2mm砲は、同世代戦車と比較して大口径で威力に優れる

以上3点が重要な特徴であると結論した。

 

 

この調査結果を受け、T-34には従来の設計思想の車両では対抗できないと考えられ、VK20.00計画は30トン級中戦車開発計画として拡大され、計画名称も「VK30.02」に改称された。

 

 

VK20.00の制式名称として予定されていた「V号戦車」の制式番号は、当車の開発が開発・生産中の戦車のうちで最優先することと、T-34に対抗する新型車両開発を秘匿するため引き続き使用されたため、開発・設計がVI号戦車(ティーガーI)の後に開始されたが、番号はそれよりも古いものとなっている。

 

 

1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車、VK3002の1942年4月までの期限での設計が発注された。

 

ダイムラー・ベンツによるVK3002(DB)はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、このためターレットリングの小型化、車体小型化などが実現された。

 

 

MANの初期案、VK3002(MAN)、秘匿名称“トラディショナルなドイツ戦車”と共に両者の案は42年1月から3月までフリッツ・トート、後にアルベルト・シュペーアによるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。

 

しかし最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザインを変更し最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK3002(MAN)の方であった。

 

 

この決定の決め手の一つに、MAN社のデザインは既存のラインメタル―ボルジッヒの砲塔を利用できた、と言う事も挙げられる。

 

 

 

この新型中戦車は1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。

 

しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。

 

「パンター(Panther:豹)」の名称は、先行して開発されていた重戦車が非公式ながらヒトラーにより「ティーガー(Tiger:虎)」の愛称を与えられていた(後に正式名称として決定される)ため、より快速で軽量な機動力の高い俊敏な車両として完成することを印象づけるために命名されたものである。

 

 

しかし、VK3002は当初35tクラスの予定から設計段階で重量が大幅増加した上、設計がほぼ完了した時点でヒトラーの要求で車体前面装甲を60mmから80mm、砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の重戦車クラス約45tの重量の「中戦車」として完成した。

 

 

そのため、当初予定の最高速度は60km/hから55km/hに低下し、重量増加はほかにも様々な問題を引き起こしている。

 

 

それまでのドイツ戦車と違い傾斜した装甲を持っており、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。

 

 

また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役も与えられている。

 

 

 

パンターの車体上部は前面、側面及び後面の全面に渡って傾斜がつけられており、避弾経始を追求したデザインとなっている。

 

ただし、強力な前面装甲に対し側面装甲は半分程度の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(但し、側背面装甲が薄いのは本戦車に限ったことではない)。

 

 

 

主装甲板は初期型に限ってはニッケルを一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な焼き入れで表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。

 

 

 

ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(イギリスが鹵獲したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。

 

転輪の上に露出している車台側部は、射撃試験の結果ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲、シュルツェンが装着された。

 

 

最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。

 

重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。

 

また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。

 

 

また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。

 

さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった。

 

 

後に問題点が改良され、装甲師団の中核を担う戦車となる。それまでドイツ機甲部隊中核のIII号戦車生産は打ち切られ、突撃砲を除いて全て本車生産ラインに切り替えられた。

 

1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった。

 

 

しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産ラインの切り替えを行わず、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。

 

 

戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。

 

結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜した車体前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近への被弾では容易に炎上するなどの弱点も発見している。

 

またこの中でT-34によって撃破されたものはたった1両であった。

 

 

しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままであった。

 

この砲はパンターの前面装甲に対して力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの戦車砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。

 

そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備のT-34-85戦車が開発された。

 

 

r/TankPorn - Soviet T-34-85 on its way to the front line (1943, wwII)

 

本戦車はパンターと対等ではないものの、76.2mm砲よりはるかに強力で、質的な劣勢は数的優位でおぎなった。

 

T-34車台を使用したSU-85やSU-100などの新型自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多数のT-34-85を戦線に投入していた。

 

 

1944年3月23日に行われたドイツ軍によるドイツ戦車とソ連のT-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れており(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くのに対し、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫くことができる)、側面と背面ではほぼ互角であり、IS-2に対しては正面では互角であるが、側面と背面では劣るとされた。

 

 

1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員の乗るパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。

 

パンターはIS-2とほぼ同じ重量があり、実際のところはるかに軽量なT-34よりIS-2の方が好敵手と言えた。

 

 

 

パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ軍、イギリス軍の前に姿を現したが、その時はごく少数だった。

 

その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、アメリカ陸軍情報部が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』において、詳細なスペックと簡単な分析を記述している。

 

 

そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきたM4シャーマン戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量のため速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、ペリスコープ、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通することができる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても効果がある」と記述されている。

 

しかし、まとめとしては「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている。

 

 

パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいたM4シャーマン戦車となった。

 

アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、イタリア戦線などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガーと同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2㎜砲型の製造以外には対策をとらなかった。

 

これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった。

 

そのためノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75㎜砲の非力さが明らかになった。

 

 

また、東部戦線で経験を積んだドイツの戦車エースたちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団のエルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。

 

特に有名な活躍は、1944年7月27日にフランスのサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる。

 

 

のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる。

 

その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出に成功している。

 

同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している。

 

このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、そのような事実は全くなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガの調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある。

 

 

個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板で168㎜の貫通力があり、M4シャーマンの正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの M1 76mm戦車砲は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンターの正面装甲を貫通することはできなかったのでパンターに優位性があった。

 

しかし正面でも砲塔の防盾は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。

 

また、アメリカ軍は、パンターやティーガーへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化していた。

 

M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1~2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208㎜の垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回っている。

 

ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった。

 

 

これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mと、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなかった。

 

 

実際に戦われた戦闘距離であればパンターのM4シャーマンに対する優位性は殆どなく、印象とは異なり、パンターが一方的に撃破される戦闘も存在した。

 

ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。

 

 

ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識しており、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、鹵獲車両による臨時部隊も編成された。

 

戦車兵たちにはパンターは大変好評であり、「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。

 

ドイツ乗員のための運用マニュアルもロシア語に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。

 

 

これはパンターに限らないが、鹵獲した敵戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、その犠牲になることを恐れて一部のソ連軍戦車兵の中には鹵獲パンターに乗ることを避ける者もいた。

 

ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。

 

戦後1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。