イタリアの戦車 | 戦車兵のブログ

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イタリアの戦車と言えば『ガールズ&パンツァー』のOVA「これが本当のアンツィオ戦です!」でアンツィオ高校が使用している戦車を思い出す。
 
正直イタリアの戦車にはあまり興味がなく、イタリアの戦車は大したことないっていうイメージだ。
 

 

 

最強戦車を挙げるとなると議論が分かれるところで、最弱もまたしかりですが、その一角を占めるかもしれないのがイタリアの戦車M11/39でしょう。

 

第2次世界大戦の北アフリカ戦線に投入され、イタリア軍は語り継がれるほどの大敗北を喫します。

 

それがイタリア戦車のイメージなのです。

 
ガルパンも新作が劇場公開されるしちょっとイタリア戦車を調べて見た。
 
 
FIAT2000は、イタリアの重戦車で、イタリアが開発した最初の戦車である。
 

 

1917年にフィアットにより計画され、1917年に1輌、1918年に1輌の計2輌が試作された。開発にはフランスから購入したシュナイダーCA1が参考にされた。

50輌が発注されたが、量産はなされなかった。

 

2輌目の試作車は、1934年の時点では前方2つの機関銃を37 mm砲に換装していた。

 

2輌の試作車両の完成は砲塔の形状やハッチの配置、装甲の配置の検討などのために延期されていった。

40トンもの重量は、ドイツのKヴァーゲンの150トン以上を例外とすれば、第一次世界大戦中に量産された戦車の中では最も重い車両となる。

 

 

FIAT2000は2輌の試作のみで本格量産されず、試作車の完成後程なく第1次世界大戦が終了してしまったために、実戦にも参加していない。

 

 

 

FIAT 3000(フィアット トレミーラ)はイタリアの軽戦車である。

 

 

フランスのルノー FT-17 軽戦車を元に開発され、1920年6月に試作車輌が完成、1921年に制式化され、これを「フィアット3000突撃戦車 1921年型」または「フィアット3000A」と呼び、1923年に量産が開始された。

 

生産数100輌。

 

 

1929年には改良型の「フィアット突撃戦車 1930年型」または「フィアット3000B」の試作車輌が完成、1930年に制式化された。

 

生産数は52輌。

 

 

第二次世界大戦時には既に旧式化して治安維持や要地警備に用いられていた。

日本でも1930年代初期に、FIAT 3000Bを数輌輸入している。

 

 

武装は、FIAT 3000Aと同じ、6.5mm機銃の連装である。

 

同時期に輸入したルノー NC27 軽戦車やヴィッカース 6トン戦車との比較検討用と考えられる。

 

 

1943年のシチリア島における戦いでもいまだ使用されており、連合軍と砲火を交えている。

 

 

『ガールズ&パンツァー』のアンツィオ高校の使用戦車として、通常型のCV33が複数登場しているので知っている人も多いのがL3

 

 

L3は、戦間期にイタリアで開発され、第二次世界大戦まで使用された豆戦車。各型式を合わせ2,000輌から2,500輌が生産され、第二次世界大戦突入時、イタリア軍が最も多く装備する装甲戦闘車両であった。

 

 

イギリス製のカーデン・ロイド豆戦車の独自発展型で、当初C.V.33(カルロ・ヴェローチェ=快速戦車、33年型)として採用され、その後改良型のC.V.35C.V.38などが作られた。

 

L3は3トン級の軽戦車を指す。セリエは英語でのシリーズ(series)にあたる。

 

1938年、イタリア陸軍の車両分類名称変更により、それぞれL3/33L3/35L3/38と改称されることになった。

 
 

1929年、イタリアはイギリスから4輌のカーデンロイド Mk.VIを輸入。

 

ライセンスを得て、C.V.29の名称で21輌生産した。

 

さらに、独自の発展型がフィアットとアンサルドによって開発され、フィアット=アンサルドC.V.33(もしくはCV33、C.V.3/33)として制式採用された。

 

 
C.V.33は、カーデンロイド Mk.VIおよびC.V.29同様の無砲塔・2人乗りの豆戦車だが、車体は完全に新設計の、それらよりも大幅に延長されたものとなった。
 
カーデン・ロイド Mk.VIの初期の無蓋の戦闘室は、着席した乗員の肩の高さまで装甲板があるのみで、後期のタイプやC.V.29ではこれにピラミッド型のハッチを付けた。
 
これに対し、C.V.33では戦闘室が増積され、上面には2つの平板なハッチを持つ。
 
また乗員の配置はC.V.29までとは逆に、右が操縦手、左が車長兼機銃手となった。
 
前に起動輪、後ろに誘導輪がある、リアエンジン・フロントドライブ方式である。
 
エンジン室のデザインはその後のL6/40軽戦車やM11/39以降の中戦車でも踏襲された。
 
 

1935年には、小改良型であるC.V.35が登場する。

 

もともとC.V.33では戦闘室が溶接で組まれていたが、イタリア(のみならず1930年代当時はほとんどの国が同様であった)では溶接技術が未熟だったので、C.V.35では堅実なリベット接合に変わっている。

 

武装はC.V.33の初期生産型(セリエ I)ではフィアット レベリM1914 6.5mm重機関銃1挺(試作車と極初期量産車では水冷式、以後の量産車では空冷式)、後に8mm重機関銃(フィアット レベリM1935重機関銃またはブレダM38車載機関銃(ブレダM37重機関銃の車載型)2挺となり(セリエ II)、これがC.V.35まで標準となった。

 

その他、ゾロターン S-18 20mm対戦車ライフル(資料によっては、全自動の「S-18/1100」、もしくは、半自動の「S-18/1000」、と異なる)を搭載した対戦車型、火炎放射型などのバリエーションも作られた。

 

 

 

L3/C.V.33系列は、1935年のエチオピア侵攻に投入され、さらには1936年のスペイン内乱でも使用された。

 

本来、偵察・警備用の軽車両として開発されたものだけに、この時点ですでに、その弱武装と軽装甲は第一線で使用するにふさわしくないことが明らかとなった。

 

無砲塔のため機銃の左右の射界も限られた。

 

とはいえ、第二次世界大戦に突入したとき、イタリア軍が装備する「戦車」は、約100輌のM11/39を除いてはL3のみで、その後も、イタリアが参加したほぼすべての戦場で使われた。

 

ただし、連絡や後方警備など限られた用途以外にその活躍の場は少なく、すでに1940年末時点で、最前線で使われるL3は少数であった。

 

C.V.33は、1939年12月の崑崙関の戦いでも中国国民党軍によって使われた。

 

 

 

M11/39は、第二次世界大戦期のイタリア初の中戦車である。

 

ベースとなったカルロ・アルマート8トン軽戦車は、1935年に試作された。

 

車体右側にM30 40口径37mm砲を、車体上部にM38 8mm重機関銃2丁を装備した旋回銃塔を装備し、それまでのガソリンエンジンから、被弾時の発火に強く燃費も良いディーゼルエンジンが採用されるなど進んだ面もある。

 

しかし、スペイン内戦で国民党を支援するために参加したイタリア陸軍に配備されていた8トン軽戦車の試作車の戦訓から、スケールを拡大して11トンクラスの中戦車へと発展した。

 

これがM11/39で、1939年に制式化され、1939年-1940年に100両が生産された。

 

戦車砲であるM30 37mm砲は砲塔に載せることができず、8トン軽戦車と同じく車体右側に搭載され、銃塔にはM38 8mm連装機銃が据え付けられている。

 

その戦車砲の搭載方法は自走砲同様のものであり、射界が限られていた。

 

そのため、敵が射界から外れると車体ごと向きを変えて、それから照準をし直さなければならず、接近戦では非常に不利である。

 

1940年にはリビアでの戦闘を始めに実戦投入されたが、貧弱な装甲のため多くの車両は戦闘で失われ、1941年初頭にはほぼ全車が退役した。

 

数両が北アフリカ戦線のオーストラリア国防軍に鹵獲・使用され、イタリア軍への反攻作戦へ投入された。

 
 
L6/40(Carro Armato L6/40)は第二次世界大戦中にイタリア陸軍で運用された軽戦車である。
 
Lは軽戦車のクラス(Leggero)を示す。
 
1941年から1942年末までに283輌が生産された。
 
L6の車体の基本的デザインは、砲塔を持つほかはほぼL3豆戦車のままで、ただし足回りは機構を一新、転輪2個のボギー2組を、長大なスイングアームを介してトーションバー・サスペンションで懸架した。
 
接地長を稼ぐため、後部誘導輪も接地する型式であった。
 
L6に先だって採用されたM11/39中戦車の足回りはリーフスプリング型式で、その後も量産されたイタリア製中戦車・重戦車はすべて同型式を踏襲したので、結果的に、L6はイタリア戦車中最も特徴的な足回りを持つことになった。
 
 
『ガールズ&パンツァー』第7話とOVA「これが本当のアンツィオ戦です!」でアンツィオ高校が使用した戦車。
 
劇場版などにも登場している。
 

P40(Carro Armato P40)またはP26/40(Carro Armato P26/40)は、第二次世界大戦中にイタリア王国で設計・開発された重戦車である。

 

公式呼称「カルロ・アルマート P40」は、カルロ・アルマートは「装甲車輌=戦車」、Pは「Pesante(ペサンテ、「重」の意)」、26は車重が26t、40は1940年制式であることを示す。

 

 

設計は1940年に開始されたものの、イタリアが連合国との休戦に調印する時期までに、ごく少数の車輌しか生産されなかった。

 

またその後、生産された少数の車輌はドイツ陸軍によって使用された。

 
 
P40の設計はかなり斬新なものであった。しかし本車は現代的な装備のいくつかを欠いていた。
 
例えば、溶接構造、新型のサスペンション、車長用のキューポラである。
 
装甲はイタリア軍の標準的な仕様によって防御力を定められたものであった。
 
これは乗員と内部構造を、イギリス軍の装備するQF 2ポンド砲(口径40mm)のような初期の対戦車砲から防護し得たが、1943年に登場した対戦車用兵器、例えば、通常射程で100mm以上の装甲を貫通したイギリス軍のQF 6ポンド砲(口径57mm)、またはQF 17ポンド砲(口径76.2mm)、には対抗できなかった。
 
 
これらの欠点にもかかわらず、イタリアが戦争中に実戦化したものとしては、P40は連合国およびドイツ軍の中戦車に相当する唯一のイタリア軍の戦車であった。
 
25tから30tの車重を持つこの戦車は、出現の2、3年前においては「重戦車」の範疇に分類された。
 
フィアット M13/40 のような戦車設計は10tから15tの車重を持ち、「中戦車」と考えられた。
 
P40は重戦車と呼称されたが、国際標準においてこれは中戦車であった。
 
P40は、カーデン・ロイド豆戦車に端を発するCV29やL3/35のようなタンケッテにはじまり、それからこれら従来のタンケッテが持つ、多くの特徴を共有しつつも、より大型化されたM11/39中戦車のようなモデルへと進化を遂げて行った、イタリアの戦車設計の最終地点であった。
 
 
1,200輌のP40が発注されたが、うちごく少数、資料によっては1輌から5輌とされる試作車輛が1943年9月のイタリア休戦前に完成した。
 
休戦の後、その場でこれらの車輛はドイツ国防軍に接収された。
 
約100輌のP40が戦争終結までアンサルド社によって生産されたものの、40両がエンジンの不足のため、完成に至らなかった。
 
60両が「PanzerKampfwagen P40 737(i)」の呼称でドイツ軍に徴用され、アンツィオで戦闘に投入された。
 
またエンジンのない車体40両が、固定砲台としてトーチカなどに使用された。