軍神西住小次郎大尉、1938年5月17日、支那事変の徐州会戦で西住小次郎戦車小隊長が戦死した日。
支那事変初の軍神となる。
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。
陸士46期。
最終階級は陸軍歩兵大尉。
勲五等功四級。
熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。
日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。
戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。
1934年(昭和9年)6月陸士卒業(第46期、兵科:歩兵)後、見習士官として宇都宮歩兵第59連隊附。
同年12月には、静岡歩兵第34連隊の陸軍歩兵少尉として満州事変に従軍。
これにおいて飛行機とともに戦車の重要性を感じた西住は、内地帰還後、自ら戦車兵への転科を要望した。
1936年(昭和11年)1月から習志野戦車第2連隊練習部で戦車兵としての教育を受けた後、同年8月から久留米戦車第1連隊附に転任して陸軍歩兵中尉任官。
翌年の1937年(昭和12年)9月3日、第二次上海事変において戦車第5大隊・第2中隊(中隊長・高橋清伍大尉)配下の戦車小隊長として上海に上陸、急遽天谷支隊に配属された。
以降、歩兵支援という地味な役回りではあったが、大場鎮の戦い、南翔攻城戦と激戦を戦い抜き、うち5回も重傷を負いながらも、一回も前線を退くことなく、実に計34回の戦闘に参加して武勲を挙げた。
また、高橋大尉が負傷した際には、中隊長代理として第2中隊の指揮を務めた。
徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近に於いて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見した。
西住は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車し単身斥候を行った。
下車偵察である。
そして指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃された。
銃弾は西住の右太腿と懐中時計を貫通し左大腿部の動脈を切断した。
すぐに部下である城秀雄伍長と砲手であり当番兵の高松高雄上等兵が戦車から飛び出して西住を担ぎ込み、また別の戦車2両が前面に出てクリークと西住の間を遮り盾となった。
西住は出血多量のために意識朦朧となりながらも、高松上等兵に高橋中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じた。
部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住は、衛生隊軍医の服部(階級不明)から応急措置を受け止血したが、すでに手遅れであった。
自らの最期を悟った西住は、高松ら部下と高橋中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げ、午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取った。
享年24。
死後、陸軍歩兵大尉に特進した。
軍神・西住小次郎
死後、西住の上官だった細見惟雄大佐は、11月、千葉陸軍戦車学校で行われた講演会で西住について触れた。間もなくマスコミは西住のことを一斉に書き立て、西住を軍神と称賛した。
こうした動きに軍部も黙ってはいられず、翌年3月11日、西住は「申し分ない典型的武人」「忠烈鬼神を泣かしむる鉄牛隊長」として陸軍報道部によって顕彰され、功四級金鵄勲章及び勲五等旭日章を授与された。
戦前日本において、日露戦争時の広瀬武夫中佐・橘周太中佐などが既に「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていたものの、軍部によって公式に「軍神」として指定されたのは西住が最初であった。
以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。
また、西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。
その他にも、西住をテーマにした小説や戦時歌謡(軍歌)、子供向けの伝記が数多く作られている。
特に、軍部の依頼によって書かれた菊池寛による小説『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載されると好評を博し、1940年(昭和15年)には松竹により映画化。
監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演している。
また主題歌の『西住戦車隊長の歌』は北原白秋が作詞を、飯田信夫が作曲をそれぞれ担当した。
公私の場を明確にし、軍紀には厳しかったが、普段は部下に優しく接していた。
常に戦果の報告は控えめであり、部下にも自分の手柄をむやみに語ることは厳しく禁じていた。
中学では柔道を行っており四級だった。あまり強くはなかったが、反面持ち前の粘り強さでしつこく向かってきたため、周囲にとっては別の意味で手ごわい相手だったという。
だが陸士では剣道重視だったため柔道を選択したことを後悔したという。
幼少期から大変な読書家であり、中学校の頃は図書委員を務めていた。
士官学校の頃は上着のポケットに常に英語の本を忍ばせ、また昼食時間や上官退庁後は他の候補生たちが将校集会所で囲碁将棋に興じる中一人図書館に通い、読書に没頭していたという。
その中でも特に岡谷繁実の「名将言行録」をよく読んでいた。
幼少期のあだ名は「小ジュ」「小ジュさん」、中学時代は「背高ノッポ」「トウボシ柿」「サトガラ」など[8]、士官学校入学以降は、予科では「宣長」本科では「デロ入」だった。
中学の頃は英語が得意(逆に不得意なのは物理化学)であり、陸士時代には分厚い解説書を3日間かけて翻訳したことがあった。
詩吟や口上が得意で、宴席の場でよく披露しており日頃も吉田松陰の歌をよく吟じていた。また自分でもしばしば詩を作っていた。
宮部鼎蔵、橋本左内、吉田松陰、乃木希典を尊敬していた。
特に松陰に関しては陸士時代、暇さえあれば松陰伝を紐解き、従弟を連れて松陰神社に参拝するほどだったという。
中学校入学当時の体格検査表によると、身長4尺7寸6分(約1.43m)、体重53kg、視力1.2とあり、4年生のころには当時の平均身長を大きく上回り、1m83cm(183cm)まで伸びた巨漢となっている。
戦死時は鉄兜に革脚絆を履き、指揮官旗と軍刀を持っていた。
父・三作はかつて熊本歩兵第23連隊長だった荒木貞夫の部下であり、荒木が師団長に就任した後も親交を続けていた。
父は家の座敷に荒木の書いた「滅私奉公」の扁額を飾っており、また西住が陸士に合格した際にも、荒木が保証人となっている。
出征の数週間前、軍刀は父が日露戦争で使った遺品を仕込もうと考え、久留米の刀剣師に持って行ったが、鍔元まで刃こぼれがあった為、実戦では使い物にならないと告げられ、結局諦めざるを得なかった。
戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。
西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。
産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。
翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。
恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。
1938年2月9日、南京にて戦車第5大隊が上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王の巡閲を受けた際、弾痕の凄まじい西住の戦車を見て驚いた鳩彦王は、「この戦車は、まだ使えるか」と尋ねた。
乗員の位置に直立した西住は恐懼しつつ説明した。
2日後母宛に送った手紙で『私自身はもちろん、家門の光栄この上ないことと存じます』と述べている。
同期生の月岡大尉は、「西住は、真面目にやっとるなと思うたぐらいで一向に目に留まらんかった。だが、彼の親孝行ぶりだけは、誰もが知っていた。」と語っている。
また、他の同期生は、「西住には、あいつは好きだが、こいつは嫌いだという区別がない。誰でも、同じように付き合っていた。万人一様だ。だから、西住には敵がいない。西住のどこにそういう魅力があるのかわからないが、みな西住の顔を見ると、気持ちが朗らかになった。」と語っている。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、西住と同じ戦車第1連隊の機甲兵将校だった作家司馬遼太郎は、戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表しているが、菊池寛の『西住戦車長伝』とは対照的に「西住は取り立てて才能のない、従順そのものの少年であった」としている。