5・16軍事クーデターは、後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター。
1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。
クーデターが起こった社会的背景として、
1.自由党政権を引き継いだ民主党政権の政治的無策と党内抗争
2.民主的改革に対する民主党の曖昧な態度、経済状況悪化に対する国民の不安の高まり
3.学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動の高まりに対して軍部が危機感を抱いた。
ことがあげられる。そして直接的背景として軍内部の問題が挙げられる。
1.分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた。
2.不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。
こうした背景の下、金鍾泌予備役中領(中佐)を初めとする陸士8期生の佐官級将校9名によってクーデター計画が策定され、彼らがクーデターを主導した。
- 分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた。
- 不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。
こうした背景の下、金鍾泌予備役中領(中佐)を初めとする陸士8期生の佐官級将校9名によってクーデター計画が策定され、彼らがクーデターを主導した。
当初クーデターは、4・19学生革命から1周年となる1961年4月19日を予定し、革命1周年を記念する民衆蜂起或いは学生デモを鎮圧する口実の下に行う予定でいた。
しかし、4月19日は期待していた民衆蜂起や学生デモが起こらず平穏に過ぎたため、クーデター部隊を出動させることができず失敗した。
そのため、クーデター決行日を5月12日に延期し、再度計画を練り直したが、クーデター勢力の同志である李鍾泰大佐が計画を漏洩してしまったため、再度計画は延期され、1961年5月16日が最終決行日とされた。
クーデターに参加した人物および兵力は以下の通りである。
- 第2軍副司令官朴正煕少将
- 参謀長李周一少将(同徳台1期)、李洛善少領
- 第30予備師団(兵力1,000名)作戦参謀李白一中領が指揮
- 第33予備師団(兵力1,000名)李炳燁大領、作戦参謀呉学鎮中領が指揮
- 第1空輸特戦団(兵力500名)団長朴致玉大領(陸士5期)、崔昭満中領、第1大隊長金焍民中領が指揮
- 海兵隊第1臨時旅団(兵力500名)金東河海兵予備役少将(同徳台1期、前第1海兵師団長)、旅団長金潤根海兵准将(同徳台6期)、第2副連隊長趙南哲海兵中領、第1大隊長呉定根海兵中領、人事参謀崔龍琯少領が指揮
- 第6軍団砲兵隊(5個大隊、兵力1,000名)司令官文在駿大領(陸士5期)、作戦参謀洪鍾哲大領が指揮
- 第636大隊長:申允昌中領
- 第993大隊長:具滋春中領
- 第933大隊長:白泰夏中領
- 第1重砲大隊長:鄭五敬中領
- 第911大隊長:金仁華中領
- 第6管区参謀長金在春大領(陸士5期)、作戦参謀朴圓彬中領が指揮
- 通信隊(兵力50名)南宮珍少領が指揮
- 特殊任務(政権首脳部および鎮圧軍指揮官の拘束) - 呉致成大領、玉昌鎬中佐、金炯旭中領、李錫済中領、柳承原中領、朴鐘圭少領
- 大邱市制圧部隊
- 第5管区工兵施設隊隷下1個大隊:徐相潾大領が指揮
- 第1205工兵旅団隷下3個大隊:2軍司令部工兵部長兼参謀朴基錫大領が指揮
- 第133工兵隊(長:金鎭國中領)
- 第208工兵隊(長:張東雲中領)
- 第1建設工兵隊(長:任光燮中領)
その他参加者:蔡命新(第5師団長)、李哲熙(陸軍防諜部隊長)、康誠元少領(陸軍情報参謀本部企画官)、宋贊鎬准将(高射砲旅団長)、尹泰日
- 憲兵参謀朴泰元大領、砲兵参謀鄭鳳旭大領、心理戦参謀許順五大領、曹昌大・李鐘根・朴容琪・沈怡燮・厳秉吉中領(いずれも1軍司令部参謀、革命に呼応し李翰林司令官を拘束)
5月16日午前3時を期してクーデターは決行され、朴正煕少将を最高指揮官とする革命軍は、漢江大橋付近で憲兵第7中隊(中隊長:金錫律大尉)50余名と銃撃戦を行った以外は、大きな抵抗も無しに中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分を制圧した。
こうして首都を制圧した革命軍は午前5時、中央放送局の放送を通じて軍事革命が行われたことを全国民に宣布した。
クーデターに成功した革命軍は軍事革命委員会を設置し、陸軍参謀総長である張都暎を説得して議長に就任させ、クーデターを指揮した朴正煕は副議長に就任した。
そして軍事革命委員会は六項目からなる革命公約を発表した。
また軍事革命委員会布告第一号によって全国に戒厳令が敷かれ、一切の屋内集会が禁止、出版や報道に対する事前検閲が実施されるとともに、布告第四号で現政権(張勉政権)の解任と国会及び地方議会の解散、政党や社会団体の活動禁止、張政権の全閣僚と政務委員の逮捕、国家機構の一切の機能を軍事革命委員会が代行することが宣言された。
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クーデター直後、宿舎としていた半島ホテルから脱出し、修道院に身を隠していた張勉首相は5月18日昼に姿を現して臨時閣議を開催、軍事革命委員会への政権移譲を決議した。
また尹潽善大統領も非常戒厳令を追認し、軍事革命に対する国民の支持と協力を求める声明を発表した。
こうして第二共和国は形式的にも実質的にも崩壊し、軍政が敷かれることになった。
軍事革命委員会発足から三日目の5月19日、名称を国家再建最高会議に改称、治安向上や経済改善などを名目に韓国民の思想・言論を弾圧した。
6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)が発足された。
このような朴の政治はその後の韓国政治史の長い軍事政権の土台を築き上げる事となった。
クーデター直後の5月16日午前11時、カーター・B・マグルーダー駐韓米軍司令官は張勉政権を支持しクーデターに反対する声明を、米軍放送を通じて発表した。
そして駐韓米代理大使マーシャル・グリーンと共に青瓦台を訪問し、尹潽善大統領にクーデター軍を鎮圧するための動員令を韓国軍に下すことを要請した。
しかし、尹大統領は「国軍同士が衝突すればソウルは火の海となり、そのすきに北が南侵する恐れがある」として要請を拒絶した。
一方、アメリカ本国のアメリカのケネディ政権はクーデターに対し、慎重に静観する態度を取っていたが、クーデターから三日目の5月19日、アメリカ国務省は軍事政権への支持を発表した。
そして軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立を標榜する革命公約に大いなる期待を表明した。
クーデターを主導した朴 正煕は、満州国陸軍軍官学校(士官学校)に志願入隊した。
卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受けた。
朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。
国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将、第2軍副司令官の重職に就いた。
一方、内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。
これらの状態に対して軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。
満州軍官学校入校の翌1941年に創氏改名で高木正雄の日本名を名乗り、その後更に岡本実に名を改めている。
朴正煕が合格した満州国軍軍官学校2期生には、朴正煕を含め12人の朝鮮人学生がおり、彼らは満系生徒として生徒中隊に配属された。
朴は第3中隊第3区隊(中隊長:愛新覚羅溥傑少校、区隊長:張連芝中尉)の所属だった。
1942年3月に非日本人の首席で卒業、満州国皇帝溥儀から恩賜の金時計を授けられている。
満州国軍軍官学校卒業後、日本の陸軍士官学校に留学、第57期生編入を経て、1944年に卒業した。
日本陸軍士官学校卒業後、チチハルの関東軍工兵下士官候補者隊を経て東寧駐屯の第120師団工兵隊(通称号:満州第635部隊)に見習士官として配属され、3か月間勤務した。
1944年7月に満州国軍少尉に任官、朴正煕は満州国軍第5軍管区隷下の歩兵第8団(所在地:熱河省興隆県半壁山鎮、団長:唐際栄上校)の朝鮮人将校4人のうちの一人となった。
1944年7月下旬から8月初旬ごろまで行われた八路軍討伐作戦では第8団第2連排長として参加。
しかし朴の部隊は八路軍と交戦しなかったという。
1945年7月に中尉に昇進、ソ連対日参戦により1945年8月9日にソ連軍が満州国に進攻した後、1945年8月15日の日本の降伏時は第八団の副官を務めていた。
副官には甲乙の2種類があったが、朴は乙種副官であり、主に隷下部隊への作戦命令通達や団旗の管理をしていた。
1946年9月に、南朝鮮国防警備隊の幹部を育成するためにアメリカ軍政庁が設置した教育機関、「朝鮮警備士官学校」に2期生として入学した。
朴正煕は南朝鮮労働党に入党していたが、1948年8月15日の南朝鮮単独での大韓民国建国と翌9月9日の北朝鮮に於ける朝鮮民主主義人民共和国建国後、同1948年10月19日に南朝鮮労働党に呼応した大韓民国国軍の党員将校が麗水・順天事件を引き起こすと、軍内党細胞であったことが粛軍運動により発覚し11月11日に逮捕、ソウルの西大門刑務所に送られた。
この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した白善燁、元容徳、金一煥ら軍内の要人の助命嘆願により武官免職と共に1949年4月に死刑を免れた。
免職後は「陸軍情報課北韓班状況室長」として北朝鮮の情報分析に勤しんだが、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後、少佐として軍役に復帰し、同年中に陸英修と再婚している。
朝鮮戦争中の7月14日に現役軍人に復帰した後、1950年9月15日に中佐に昇進、1951年に作戦教育局次長へと昇進し、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定調印までに大佐に昇進した。
朴正煕はこの朝鮮戦争時にアメリカ軍の軍人も認めるほどの筋金入りの反共産主義者となっている。