ベルリンの戦い | 戦車兵のブログ

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1945年4月16日、ソ連軍がベルリンの総攻撃を開始した日。

 

 

ベルリンの戦いとは、第二次世界大戦末期、1945年4月16日の赤軍のゼーロウ高地攻撃開始から、総統地下壕におけるヒトラーの自殺、帝国議会議事堂の陥落、5月2日のドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングの降伏に至るまでベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。

 

 

 

 

1944年6月22日、ソビエト赤軍によって開始されたバグラチオン作戦の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。

 


1945年1月20日、赤軍は東プロイセンに侵入、遂にドイツ領内へ進撃した。

 

 

 

参謀総長ハインツ・グデーリアンはラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは1月23日の会議でオーストリアとドイツの石油の80%を供給するハンガリーの防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から第6SS装甲軍を抽出してハンガリーに派遣することを決定した(春の目覚め作戦)。

 

 

しかし、この部隊は派遣先のハンガリーで壊滅した。

 

 

 

 

 

 

 

3月28日、ヒトラーはキュストリン橋頭堡の失陥をめぐって対立したハインツ・グデーリアンを参謀総長から解任、後任にハンス・クレープスを任命した。

 

 

 

状況は悪化しており、首都ベルリンの運命はオーダー河戦線のヴァイクセル軍集団隷下の第3装甲軍と第9軍、中央軍集団隷下の第4装甲軍に委ねられていた。

 

 

しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でもその戦力は著しく低下しており、国民擲弾兵や武装SSの外国人義勇兵など、即席部隊で対応しなければならなかった。

 

 

また、その即席部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多かった。

 

 


そのため、実質的な指揮官は叩き上げの軍人であるヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将やヴィルヘルム・モーンケSS少将らに委ねられている状態であった。

 

 

 

 

 

オーデル~ナイセ河の攻防

 


1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。

 

 

 

作戦は午前5時、オーダー川からゲオルギー・ジューコフ元帥率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140のサーチライトを照射し、渡河攻撃が行われた。

 


しかし、この照射はドイツ軍の目を晦ますどころか、逆にドイツ軍砲兵のために赤軍を照らし出す結果となった。

 

 

又、ヴァイクセル軍集団の司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。

 

 

このためオーデル河を渡河した赤軍はゼーロウ高地でテオドーア・ブッセ大将率いるドイツ第9軍の頑強な抵抗に遭い、攻撃は頓挫した。

 

 

 

一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も午前6時、ナイセ河から攻撃を開始し、砲撃と煙幕の援護を受け渡河を行った。

 

 

午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは第3親衛戦車軍に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した。

 

 

 

4月17日、ジューコフはゼーロウ高地のドイツ軍防衛陣地を破り、18日早朝までに同高地を占領し、ミュンヘベルクへ向け第8親衛軍と第1親衛戦車軍を進めた。

 

 

しかし、ドイツ空軍の支援を受けたミュンヘベルク装甲師団が、これ等の赤軍を叩き、大損害を与えた。

 


だが、19日にはドイツ第9軍の戦線は突破され、第CI軍団は北へ、第LVI装甲軍団はベルリンに、SS第IX装甲軍団とSS第V山岳軍団、フランクフルト・アン・デア・オーダー守備隊はブッセ直接指揮のもと、南へ後退した。

 

 

ナチス高官のベルリン脱出

 

 

4月20日、ヒトラーの誕生日を祝うために、軍高官およびナチス高官が総統官邸に集まった。

 

 

この日開催された軍事会議で、アメリカ軍と赤軍がエルベ河で合流した場合に備えドイツ北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することとなった。

 

 

又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まった。

 

 

 

会議が終わると、政府の大部分はベルリンを立ち退き、ヘルマン・ゲーリングやエーリヒ・レーダー等も立ち去っていった。

 


一方、ベルリン防衛司令官ヘルムート・ライマン中将の事務室には、ナチスの幹部が口実を設け、ベルリン立ち退きの許可証を求め集まってきた。

 

 

ベルリン防衛責任者のヨーゼフ・ゲッベルスは、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告しており、ベルリン防衛司令部の許可証が無ければベルリンを退去することができなかったためであったが、これをライマンの副官は嘲笑していた。

 

 

結局、ライマンは彼等に2000枚以上の許可証を発行した。

 

 

 

4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京の海軍軍令部はベルリン脱出寸前の阿部勝雄中将宛に緊急電報を発信し、「残存するUボートをできるだけ多く日本に回航するようドイツ海軍に要請し、その実現に努力せよ」との指令を行った。

 

 

この要請に海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。

 

 


しかし、指令を果たすために、阿部はその後、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、4月20日に最終的な回答を受けた。

 

 

 

その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、ハンブルク方面へ脱出した。

 

 

ベルリンの包囲

 

 

 

4月20日、コーネフはさしたる抵抗を受けることも無く、バルートを陥落させ、ドイツ陸軍総司令部のあるツォッセンに達しようとしていた。

 

 

一方ジューコフは、ドイツ第LVI装甲軍団の抵抗もあり思うように進撃できていなかったが、21日には第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼーに突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。

 

 

翌22日、第3親衛戦車軍と第4親衛戦車軍がテルトウ運河に到達し、23日にはベルリン郊外市街地へ突入を始める。

 

 

 

翌24日、第LVI装甲軍団の司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が急遽ベルリン防衛軍司令官に任ぜられ、率いる残余部隊をベルリン市街の各所に配置した。

 

 

 

政府機関に近いアンハルト駅付近に第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント、総統官邸付近はヴィルヘルム・モーンケSS少将が率いる武装親衛隊、ヴィルマースドルフ付近にはミュンヘベルク装甲師団、ヴァンゼー、ポツダム、グルーネヴァルト、ハーレンゼー方面には第20装甲擲弾兵師団、フリードリヒ通り駅付近に第9降下猟兵師団が配置、第18装甲擲弾兵師団が予備とされた。

 

 

 

しかし、どの師団も定数を下回る寄せ集めであり、50万人近い赤軍の前に包囲網は狭まっていった。

 

 

4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍はポツダム郊外へ達し、ベルリンは包囲された。

 

 

 

ベルリン市街戦

 

 

4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるか解らぬ状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。

 

 

ナチス党員は降伏すれば即決裁判で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くのソビエト軍将兵を道連れにする事を考えていた。

 

 

ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたため、ドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた。

 

 

 

 

赤軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くはベルリン市内のティーアガルテン、フンボルトハイン市民公園、フリードリヒスハイン市民公園の3箇所に建てられた高射砲塔(通称「G塔」)をはじめ、軍が構築したコンクリート製の大型防空壕や、地下鉄の駅構内、下水道、個人宅の庭に掘った防空壕、個人宅の地下室など、身を潜められる所にはどこでも避難したが、動くことすらままならず水道も断水され衛生状況は悪かった。

 

 

そのうち送電が断たれたためラジオ放送すら聴くことが不可能になった。

 


情報を求める市民の間では、もうすぐアメリカ軍が救援のために味方してくれるなどの信憑性に乏しい噂が流れた。

 

 

戦争の終盤になってもナチスの宣伝省は相変わらず愛国の為に徹底抗戦を訴えるプロパガンダを放送していたが、多くの市民にとっては既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。

 

 

 

白旗を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなければソビエト兵に殺される状態であり、もはや助かる道はアメリカ軍に降伏する以外になかった。

 

 

 

戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵で一杯になった。

 

 

医薬品も麻酔薬も不足していた為、負傷兵は傷を負ったまま放置された。

 

 

そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。

 

 

既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒された為、ある野戦病院では看護婦がシーツと口紅で赤十字の旗を作って掲げたが、ソ連の砲撃が止む事はなかった。

 

 

生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している。

 

 

 

ヒトラーの自殺

 

 

 

4月29日、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーが西側連合国に対し降伏を申し出たことがBBCを通じて世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。

 

 

終末が近づいたことを悟った彼は、個人的、政治的遺書の口述を行い、遺書の中ではデーニッツを大統領、ゲッベルスを首相にそれぞれ任命して政府の管理を委ねることになっていた。

 

 

そして、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚した。

 

 

翌30日の15時20分、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕の居間で自殺した。

 

 

遺骸は官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた。

 

 

 

ベルリンの無条件降伏

 

 

ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、参謀総長ハンス・クレープス大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。

 

 

ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊による赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。

 

 

 


しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、守備隊は降伏した。

 

 

尚、ゲッベルスは赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した。

 

 

 

ドイツ無条件降伏

 

 

ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、5月1日にヒトラーの後継者として大統領に指名されたデーニッツの隷下にあった。

 

 

 

彼は、5月6日に全権委任したアルフレート・ヨードルをフランスランスの連合軍最高司令官アイゼンハワーの司令部に派遣、赤軍に包囲されたバルト海沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を5月9日零時として5月7日にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。

 

 

 

それでも多くの避難民は赤軍の手に落ち、悲惨な運命をたどることになった。

 

 

 

ドイツ人への報復

 

 

ソビエト軍の報復は苛烈を極め、多くの女性がソビエト軍将兵により強姦され、数多くの市民が自殺した。

 

 

ゲルハルト・ライヒリング博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人が赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が性病に罹ったとされている。

 


強姦された女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。

 

 

 

これはベルリンに限ったことではなく、赤軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった。

 

 

ソ連の作家イリヤ・エレンブルクは1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!」と赤軍兵士を煽ったことで非難されたことを記している。

 

 

 

 

また、ソ連は戦利品部隊を占領下ドイツに送り込み、ベルリンの博物館島や、ドイツ各地の博物館、美術館、個人収集品から250万点にも及ぶ絵画、彫刻等の美術品を戦利品として劫掠した。

 

 

ハインリヒ・シュリーマンが発見した「トロイアの黄金」も劫掠された一つである。

 


この内、約100万点は今なおドイツに返還されていない。

 

 

在留邦人の運命

 

 

当時、ベルリンには新兵器技術を研修・習得するために多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所や海軍武官事務所があった。

 

 

大倉商事、三菱商事の商社関係者、芸術家、留学生などおよそ400名の日本人が在住していた。

 

 

民間人の多くはベルリン郊外に避難した。

 

 

ベルリンの南西80km のマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。

 

 

このような避難所は他にも数ヵ所あった。

 

 

4月13日、ドイツの航空機体調査を担当している海軍武官事務所の永盛義夫技術中佐、樽谷由吉技術大尉は車でベルリンを離れ、ペーネミュンデ南方のロストックにあるハインケル社の工場で、ジェット機の技術資料を入手し、4月末まで同地に留まった後、中立国スウェーデンへ脱出した。

 

 

翌4月14日、駐独ドイツ大使の大島浩以下外務省関係者と大使館付武官も、自動車11台に分乗し、ベルリンを離れ、バート・ガスタイン(現オーストリア領)へ避難した。