冬戦争 | 戦車兵のブログ

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1940年 2月29日、冬戦争:でフィンランドがソビエト連邦との和平交渉を再開した日。

 

フィンランドの戦争映画は結構好きだ。

 

迫力があって緊迫感のある映画が多い。

 

フィンランドと言えば「冬戦争」だ。

 

 

冬戦争は、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争である。

 

フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。

 

 

両国間の戦争が1941年6月に再開されたため、第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言う。

 

なお、後続の戦争は第2次ソ・芬戦争、あるいは継続戦争と称される。

 

 

1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。

 

フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、両国間の交渉は、11月に決裂した。

 

 

ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、1939年11月30日にフィンランドに侵攻した。

 

明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年12月14日に国際連盟から追放されたが、ソ連の行動に何の影響も持たなかった。

 

 

 

ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ3倍の兵力を投入したが、結局マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられた。

 

 

 

既に、ドイツと戦争中であったイギリス、フランスは、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産に不可欠なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。

 

フィンランドは1940年3月まで戦い抜くが、フィンランド第二の都市であるヴィープリを含む国土の10%、工業生産の20%が集中する地域をソ連に譲り渡すという苛酷な条件の講和条約を結び、3月13日に停戦は成立した。

 

 

この戦争により、スターリンの大粛清で弱体化したソ連軍の実態が諸外国に知れ渡ることになり、特にアドルフ・ヒトラーのソ連侵攻の決断に影響を与えたと言われている。

 

 

 

1939年11月26日午後、カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村でソ連軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。

 

この事件はマイニラ砲撃事件と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。

 

この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。

 

しかしソ連は、11月27日にソ芬不可侵条約の破棄を通告。

 

11月29日に国交断絶が発表された。

 

 

11月30日、ソ連は宣戦布告なしに23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。

 

ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。

 

ソ連は、白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のパンフレットが大量にばらまかれた。

 

 その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。

 

タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。

 

また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。

 

新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。

 

 キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。

 

 

12月1日、開戦当日の夕方にはソ連軍に占領された国境地帯の町テリヨキ(現在のゼレノゴルスキ)で、1918年の内戦で敗れてソ連に亡命していた共産党員オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国が、ソ連のお膳立てで樹立され、ソ連は、この政府がフィンランド人民を代表する唯一の正当な政権であると宣言した。

 

 

ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入。

 

第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し第8軍は、ラドガ湖北岸から西進しカレリア地峡の背後への進出を計った。

 

第9軍はフィンランドを南北に分断するためスオムッサルミの攻略を目指し第14軍はラップランドへと進撃した。

 

マンネルヘイムは第9師団にソ連軍第9軍への反撃を命じ第16連隊を主力とする独立作戦集団を編成、タルヴェラ大佐に指揮を任せラドガ湖北岸を進撃中のソ連軍第8軍に反撃を命じた。

 

ソ連軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線の突破を試みたが、フィンランド第10師団の反撃により攻撃は失敗し甚大な被害を受けた。

 

ラドガ・カレリア方面ではトルヴァヤルヴィに進出したソ連軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され1000名以上の犠牲者を出し敗走した。

 

そこで第8軍はコッラー河を渡河して守りの手薄なロイモラへ4個師団+1個旅団の大戦力を投入し突破作戦を開始した。

 

しかしコッラ防衛陣地を守るフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ第8軍は進撃停止を余儀なくされた。

 

ラーテ街道(ラッテ林道)を進撃中だったソ連軍第9軍の第163師団はフィンランド軍第9師団に包囲され孤立した。

 

 

こうしてソ連軍の攻勢は全戦線でくいとめられ一部の部隊は分断され包囲殲滅の危機にさらされていた。

 

戦果をあせったレニングラード軍管区司令官メレツコフは12月16日マンネルヘイム線への総攻撃を再開。ソ連軍第7軍がスンマ要塞線への攻撃を開始したがフィンランド軍の守りは固く甚大な損害をうけ総攻撃は失敗に終わった。

 

その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され損害のみが増え続けた。

 

一方ソ連軍第9軍は包囲された第163師団を救援するため第44機械化師団を派遣した。

 

第44機械化師団はラーテ街道で雪に進軍を阻まれ立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受けて壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され12月9日から開始されたスオムッサルミの戦いはフィンランド軍の完全勝利に終わった。

 

ソ連軍第9軍の損害は戦死・行方不明者2万4000人に達し壊滅的敗北を喫した。

 

スターリンは、すべての攻勢作戦の中止を命令した。

 

スターリンは、ジダーノフ、ヴォロシーロフを軍事作戦から外し、北西方面軍司令官には、セミョーン・ティモシェンコを選んだ。

 

ティモシェンコは、新任務を受ける際に、マンネルハイム線の突破を約束したが、それは高価なものになるだろう、とスターリンに告げた。

 

新司令官のもと、28センチ榴弾砲やKV重戦車を含む大量の重火器と兵力の集積が進められた。

 

また、マンネルハイム線と似た地形陣地を自領内に作り、攻撃演習までした。

 

 

攻勢作戦の準備が完了した2月1日に、カレリア地峡で攻勢が再開された。

 

2月10日までは空爆と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。

 

ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、フィンランド軍を圧倒しマンネルヘイム線の突破に成功した。

 

 

国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。フィンランドからの提訴を受けて、12月14日に、国際連盟はソ連を追放した。

 

当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。

 

イギリスでは労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。

 

アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方、ソ連に対しては同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。

 

また、アメリカやカナダに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り義勇兵となった者もいた。後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。

 

世界各国から、総計11000人あまり(うち、スウェーデン人が約9000)が義勇兵として、フィンランド側で参戦した。

 

隣国スウェーデンからは、軍事物資、資金、人道支援も供与された。

 

 

また、世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式な兵器ばかりであり数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついぞ行われなかった。

 

 3月12日にモスクワ講和条約が結ばれると、フランスのダラディエ政権はフィンランド支援失敗の責任を議会で追及され辞職に追い込まれた。

 

 

 

ソ連指導部は、戦争開始から1ヶ月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。

 

死傷者の増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。

 

ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。

 

1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。

 

 

しかし、スウェーデン王グスタフ5世がフィンランド支援のために正規軍を派遣しないことを公式に表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的な判断により、講和による決着を考えていた。

 

これを受けた政府は2月29日より講和の交渉再開を決定した。

 

同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。

 

和平交渉の結果、両国は3月6日に停戦協定に達した。

 

4ヶ月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。ソ連軍の戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。

 

 

フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。

 

 

1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。

 

フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。

 

カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。

 

当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。

 

その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。

 

 

フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも多いのではないかとさえ言われた。

 

 

モスクワ講和条約を結ぶために、ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合され廃止された。

 

その後、なんとか独立を維持していたバルト三国は、1940年6月から8月の間に、武力でソ連により併合され、それぞれソビエト連邦内共和国となった。

 

1940年6月には、フランスはドイツに降伏し、西側でドイツと戦っているのは、イギリス連邦諸国だけとなった。

 

フィンランドは、冬戦争後、中立維持のためのスウェーデンとの軍事同盟を模索したが、ソ連とドイツの反対で、これは実現しなかった。

 

その結果、フィンランドは、軍事経済援助の見返りに軍事基地の提供などを行い、ドイツ軍はフィンランド領内に駐留を始めた。

 

これは、明らかな独ソ不可侵条約の秘密議定書に対する違反で、のちに独ソ間の外交問題になった。

 

1941年6月22日のドイツのソ連侵攻にはフィンランド軍は参戦しなかったが、ソ連軍がフィンランド領を空爆した為、6月25日に、フィンランドはソ連に宣戦し、継続戦争が始まった。