空の神兵 陸軍落下傘部隊 訓練の記録 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。

 

 

航空機により部隊を高速移動させるという構想は、ある程度現実的なものとしては1910年代から存在していた。

 

パラシュートは、飛行機からの脱出方法として実用化されていたが、これを兵員輸送手段としても利用することが考えられた。

 

例えば、第一次世界大戦中の1917年には、イギリスのウィンストン・チャーチルが、塹壕戦の膠着状態を打開する手段として、敵陣後方へのパラシュート降下の研究を指示していた。

 

 

実戦でパラシュート降下による兵員輸送が最初に実施されたのは、1916年10月のことである。

 

ドイツ軍の中尉と特務曹長がパラシュートを使い、鉄道破壊の任務で潜入作戦を成功させた。

 

より明確な戦略的意義を帯びたものとしては、フランスのエブラール空軍少佐が部下1名とともに行った空挺侵入と、物資の空中投下による継続的な後方撹乱作戦が挙げられる。

 

 

第一次大戦末期には、アメリカ陸軍航空隊のルイス・H・ブレリートン少佐とウィリアム・ミッチェル准将らが、第1歩兵師団の一部をメスの敵陣後方へとパラシュート降下させる計画を提案した。

 

ミッチェルらは1919年2月の実行を計画したが、そのような投機的な作戦を実施する必要がある戦況ではなくなり、中止された。

 

 

第二次世界大戦においてはパラシュート降下のほか、グライダーによる強行着陸によるエアボーンが行われた。

 

ヘリコプターは大戦末期にようやく実用化されたが、輸送能力が低すぎたためヘリボーンは行われなかった。

 

 

大戦中の1940年4月、ドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下したのが最初の空挺作戦である。

 

同年5月、ベルギーのエバン・エマール要塞攻略の際にもおよそ70人の空挺部隊が用いられ、ドイツ軍はグライダーで要塞上に降下した。

 

この戦いでベルギーの守備隊1,200人が不意打ちに合い、ドイツに降伏した。

 

ドイツ軍空挺部隊は1941年に行われたクレタ島の戦いにおいて島を占領する戦果を挙げたが、兵士と輸送機の損害が非常に大きかったため、これ以降は大規模な空挺作戦は行われなかった。

 

しかし、初期のドイツ軍エアボーン作戦の成功は、各国に衝撃を与えた。

 

 

日本軍によるものでは、1942年(昭和17年)1月に海軍落下傘部隊によるセレベス島メナドへの、同年2月の陸軍落下傘部隊(挺進部隊)によるパレンバンへの降下作戦(パレンバン空挺作戦)などがある。

 

特に大東亜戦争の最重要攻略目標であるパレンバン油田および飛行場を瞬く間に制圧した陸軍落下傘部隊の活躍は目覚しく、作戦に参加した兵員は後に「空の神兵」と呼ばれた。

 

 

挺進連隊は、複数個連隊や支援部隊を合わせた旅団に相当する団である挺進団を構成し戦闘序列に編入され、大戦後期には更なる上級部隊として師団に相当する集団である挺進集団が編成された。

 

帝国陸軍における挺進連隊の軍隊符号はRi、挺進団はRB、挺進集団はRD

 

 

なお、日本陸軍は第二次大戦末期の師団や旅団といった地上部隊の一部に「挺進大隊」という部隊を編合しているが、これは空挺部隊ではなく、コマンド部隊の性格を持つ歩兵であった。

 

旧日本軍(陸海軍)の用語で「挺進」とは「主力から飛び離れて進むこと(主力部隊より前方の敵地を進む)」であり、それ自体ではエアボーン(空挺)を意味しない。

 

例として日露戦争中の永沼挺進隊は騎兵コマンド部隊、マレー作戦における佐伯挺進隊は戦車と装甲車を主体とするコマンド部隊(捜索連隊)、大戦末期の海上挺進戦隊は舟艇を操舵し敵艦船に肉薄攻撃する特殊攻撃部隊であった。

 

 

そのため、エアボーンに限定するには「進」ないし「進」を略した、日本陸軍の造語である「空挺」と称することになる。

 

また、「挺進」の同音異義語である「挺身」の表記は誤記であり、これら空挺部隊やコマンド部隊などについては「挺進」と正式に表記することにも注意を要する。

 

 

第二次世界大戦初期のドイツ軍空挺部隊の活躍に刺激された日本陸軍は、空挺部隊と空挺兵(挺進兵)の創設育成に着手した。

 

1940年(昭和15年)秋より朝日新聞社から提供を受けたアメリカ陸軍空挺部隊の写真を参考に研究が始まり、浜松陸軍飛行学校に練習部を設置して機材や人員を徐々に整えた。

 

 

 

 

読売遊園落下傘塔での練習を経て、1941年(昭和16年)2月20日に初の有人降下に成功した。

 

その後、5月に満州の白城子陸軍飛行学校に拠点を移し、10月には本土・宮崎県新田原・唐瀬原に帰還して陸軍挺進練習部となった。

 

11月5日に最初の空挺部隊である教導挺進第1連隊が編成された。

 

 

大東亜戦争開戦直前の12月4日には、挺進第1連隊(1Ri)と、輸送機により空挺兵や物資の輸送降下を担当する飛行戦隊である挺進飛行戦隊(RFR)から成る第1挺進団(1RB)が編成完結した。

 

まもなく、挺進第2連隊(2Ri)も編成された。

 

 

開戦後、蘭印作戦におけるスマトラ島パレンバンへの降下作戦(パレンバン空挺作戦)には第1挺進団(挺進第1連隊欠)が投入され、日本陸軍最初の空挺作戦を成功させた。