77年前の昭和17年8月21日、北海道旭川に遠く南方から全滅した一木支隊が魂魄となって部隊へ帰還した。
一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗退したことで攻略作戦は中止となり、一時グアム島に休養を兼ねて留め置かれていた。
同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。
トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦陽炎以下6隻に第1梯団
として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が乗船し急派されている。
8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進した。
海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。
当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。
日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャーの通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。
19日昼には、倒した日本軍斥候の階級章から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。
20日18:00にイル川を越えて先行していた将校斥候(渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭った。
2時間後に生還した兵士から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。
21:00頃には、一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。22:30から歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。
火力の差は明白で、M3 37ミリ対戦車砲、M1A1 75ミリ榴弾砲、M2A1 105ミリ榴弾砲などを有する強力な砲兵に援護された機関銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。
敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。
また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機関銃や手榴弾による攻撃にとどまった。
一部の将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐は攻撃を続行した。
翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からは海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。
同日午後から投入されたスチュアート軽戦車6輌により支隊本部は蹂躙され、一木支隊は壊滅した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は、執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。
海岸での海兵隊による掃討戦は、21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。
結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。
アメリカ軍の損害は戦死者40名余りとされている。戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜はアメリカ側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない。
支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。
ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は、飢餓に悩まされるようになった。
一方、アメリカ軍もまたこの戦闘による消費で物資弾薬の枯渇が表面化しつつあったが、戦闘後に輸送船団による物資と増援兵力の輸送が成功して危機は去り、この時点において兵站面での勝敗は決していた。
「ガダルカナル島へ早く行かなければ米軍が逃げてしまう」そう一木支隊の生き残りの方から話を聞いた。
精鋭である道北健児歩兵二十八聯隊はこうして南海の孤島で全滅した。
その日の夜、原隊のある旭川へ軍旗を奉じた一木支隊の英霊が隊伍を組んで帰還した。
昭和17年8月21日の夜、北海道の軍都旭川。
旭川第七師団北部第4部隊(歩兵28聯隊)の営門、旭川市電もとっくに終電で人影ももない深夜のことだった。兵営では兵舎も寝静まり、衛兵所の控歩哨の談笑する声が聞こえるくらいであった。
その時であった、歩哨が編上靴を踏みしめて行進してくるザクザクザクと部隊の行進する音を聞いた。
表門歩哨は聞き耳を立てた、分隊規模なんかじゃない中隊以上の規模だ。
しかし部隊の姿は暗闇で見えない、軍靴の足音だけが近づいて来る。
しかも足音は第4部隊へ向かって来ているようだ、しかし第4部隊は聯隊長一木大佐以下の主力が出征していて留守部隊が残るのみ、夜間演習に出ている報告はない。
歩哨はすぐ衛兵所に向かって「部隊接近!衛兵整列!」と怒鳴った。
衛兵達は驚いたが素早く整列をし、部隊を出迎えるため整列した。
歩哨は注意深く近づきつつある部隊の方向を注意深く見た。
するとなんということか、軍旗を先頭にやって来る「まさか」と思ったが間違いない聯隊旗だ。
軍旗は天皇陛下自ら下賜された神聖で、どんなにボロボロになっても交換されることのない天皇の分身のようなもので、ボロボロの軍旗ほど歴戦の部隊の証しで、軍旗の奉焼や紛失は部隊の全滅を意味した。
しかし28聯隊は5月に聯隊長一木大佐とともに出征したばかりで、軍旗が来るならば聯隊当直司令の将校も立ち会うし、衛兵の責任者である衛兵司令も何も知らされてなかった。
表門歩哨は叫んだ「軍旗入門!、軍旗入門!」戦争中である軍事秘密なのかも知れないと思ったという。
そして軍旗を先頭に部隊は営門をくぐった、歩兵28聯隊の帰還である。
表門歩哨は捧げ銃の敬礼をし、軍旗に続くであろう一木聯隊長へ「表門歩哨、立哨服務中異常なし!」と元気よく報告した。
しかし「御苦労」の一言もなく、部隊は4列縦隊で営門を通過して行く。
なんとなく影絵を見ているようであったという、行進する部隊は息を殺して黙々と営門をくぐるのであった。
その時歩哨は驚いた行進する兵隊達が皆小銃に着剣していたのだ。
しかも兵隊達は今戦場から戻ったような薄汚れた野戦服で、腰から下は川を渡って来たかのようにずぶ濡れで上衣と下衣の色がはっきりと区別できた。
帰還した部隊は兵舎へと消えて行く、聯隊本部前でパァと消えてゆくように見えた。
整列した衛兵達は皆狐に化かされたようにキョトンとしていた。
普通なら帰還した兵舎から賑わう声でも聞こえてきそうなものだが、シーンと静まり返っている。
不気味だ、衛兵司令が「よし、俺が巡察に行き様子を見てくる」と懐中電灯を持って帰還した部隊の様子を見に行った。
最後尾の帰還兵達は第2線兵舎付近に来ると我も我もと空兵舎へと入って行った。
衛兵司令は「御苦労様」の一言でもねぎらいの言葉をかけかいと思い兵舎の中へ入った。
しかし話し声一つ聞こえず闇の廊下があるだけだ、帰還した部隊も兵隊達も存在していなかったのである。