撃つためのデザイン 「大砲」 | 戦車兵のブログ

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大砲は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸(砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器(武器)の総称。

 

火砲とも称す。

 

これに分類される火器は重火器であり、銃よりも口径が大きい物とされる。

 

ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズは軍や時代によって異なる。

 

 

数える際の単位は挺ではなくである。

 

一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。

 

大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。

 

 

大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。

 

 

こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。

 

 

 

なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。

 

 

これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大製造方」といい、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。

 

 

銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。

 

 

似たような事が自走砲と戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。

 

 

初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。

 

 

カタパルト、トレビュシェットやバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。

 

それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。

 

 

「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。

 

 

初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。

 

アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。

 

 

2m近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。

 

 

その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。

 

 

中国では1259年に南宋の寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が最も早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。

 

中央アジアや西アジアでもティムール軍がイラン・イラク地域の征服、オスマン帝国のバヤズィト1世やジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。

 

 

 

西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀(1326年)。

 

 

イギリスのスコラ学者en:Walter de Milemeteの手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。

 

ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。

 

その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。

 

 

つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。

 

 

この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。

 

 

15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。

 

砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に一般的に作られるようになった。

 

 

高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。

 

 

1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。

 

また、百年戦争末期のノルマンディーとボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。

 

 

大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、攻城戦や海戦において構造物破壊に威力を発揮した。

 

 

さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現した。

 

 

ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200km強離れた首都エディルネで鋳造されていた。

 

 

近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年にナポリの王位継承権を争ってフランス王シャルル8世がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。

 

この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった。

 

それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。

 

 

また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。

 

船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。

 

 

当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。

 

 

16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。

 

 

また1571年のレパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。

 

 

こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。

 

その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。

 

精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。

 

 

狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。

 

 

近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾やぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。

 

 

なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。

 

18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。

 

 

近代に入り、産業革命が起こる。製鉄技術の向上によって、鋳鉄製大砲の出現や、砲身のライフル穿孔、後装式の実用化が行なわれた。

 

 

近代以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退してしまうために、再び狙いをつけて砲撃するためには元の位置へ戻す必要があり、そのため連続した砲撃を行うことができなかった。

 

また大砲自体が動いてしまっては精度は保証されず、いくら狙いを定めても砲弾は別の場所へ飛んでしまう、といった欠点も長らく存在していた。

 

ところが、1840年代ごろから研究され実用化された駐退機の登場によって、砲身だけを後退させることによって発射の反動を吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃のプロセスをより高速に遂行可能になった。

 

 

また銃の精度を高める技術の進歩には、銃身のライフリング技術が大きな転機となった。

 

銃身内部に施された螺旋状の溝に沿って銃弾が回転することにより発射後の軌道は格段に安定した。

 

この原理は大砲にも用いられ、砲身にライフリングを施すことで精度、速度、射程は飛躍的に向上した。

 

 

こういったタイプの大砲が戦場に登場したのは南北戦争からであった。

 

産業革命がもたらした革新的技術を引っさげた大砲は、それまでのものとは比べものにならない位の精度を見せ、敵を駆逐した。

 

 

その後ライフリングを施した大砲が大量生産された。

 

大量に生産された鋼の兵器は以前のカスタムメイドのものとは違い規格が統一されている事も大きな特徴で、その分砲兵の腕前への依存度は減り、大砲の精度も高まった事で集中的な攻撃もより安易に可能となった。

 

 

また以前の前装式に代わって、後装式の大砲が実用化された事によって、装填する為の時間が短縮された。

 

火薬→砲弾と分けて装填せず、それらを一気に装填することが可能となった為、後装式大砲の装填速度は前装式のそれとは比較にならないものだ。

 

実は後装式は新しい発明ではなく、15世紀には既に登場していた。問題は当時の後装砲の砲尾は気密性に欠けていた。

 

初期の後装砲は砲尾で燃焼ガスが漏れて砲兵の傍で爆発する事があった。

 

 

後装式の大砲が登場したのは、南北戦争の頃で、主流はイギリス製のホイットワース砲である。

 

ホイットワースのデザインは素晴らしく、前装式でも後装式でも使用に耐えうるデザインだった。

 

砕いて言えば、砲身の後部にスクリューがあり、それを回して砲尾を開け、装填し、スクリューを逆に回して閉める、といった仕組みである。

 

改良された後装砲によって安全性が向上した。

 

その後様々なデザインが考案され後装砲が次々に世に出されることとなる。

 

ガス漏れ対策も確立され、砲兵は以前よりよっぽど安全な物となった。

 

 

第一次世界大戦の犠牲者のおよそ7割は大砲による死者であった。

 

この大戦中大砲は更に破壊力を増していく。

 

大砲は第一次世界大戦で必要不可欠なものとなった。

 

第一次世界大戦では塹壕戦が中心であり、従来の戦法、即ち生身の兵士による突撃は、意味をなさなくなった。

 

 

塹壕の前に築かれた鉄条網により進行を阻まれたところを、機関銃で殲滅されてしまうからである。

 

ここで大砲が大きく活躍することになる。

 

即ち、兵士が突撃する前に、攻撃目標を文字通り三日三晩大砲で塹壕を砲撃し続け、進軍を阻む鉄条網、機関銃陣地等を、すべて破壊し尽くすのである。

 

 

これは事前に攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点もあったが、第一次世界大戦時では辿り着けた唯一の正解であった。

 

そして第二次世界大戦でも、よりスマートにはなるが、同じ戦法が使われていく。太平洋戦争における、米軍の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。

 

 

速射砲が用いられたのはこの頃でM1897 75mm野砲、18ポンド野砲、77mm野砲等が開発された。特にM1897 75mm野砲はその誕生以来全ての大砲のデザインに影響を与え続けた。

 

 

第一次世界大戦の泥沼の膠着戦が続く中、圧倒的な火力が何よりも求められていた。

 

75mm野砲も他の速射砲も、抜きん出た決定力とはならなかった。

 

強迫観念の様に、とにかく大砲は大きくなっていった。

 

やがて軍艦に16インチ砲が搭載されるようになっていく。

 

包囲戦ではとにかく、ただひたすら敵への攻撃を続けなければならない。

 

相手が音を上げれば勝利できるからだ。相手を凌ぐには大きな大砲が必要だった。

 

より大きな榴弾砲は包囲戦でも強力な火力をもたらした。

 

榴弾砲はより高い位置から、より鋭い角度で敵地に砲弾を落とすことが出来た。

 

容赦ない攻撃を受ける中、兵士たちの心にも疲れが見え始める。イギリス人は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。

 

近くで砲弾が破裂したからだ、と信じているからだ。

 

心理的ダメージかなり大きく激しい砲撃を受けたのが原因で、シェルショックはその体験の現れだった。

 

 

日本の大砲の歴史は、1576年(天正4年)、大友宗麟がポルトガルの宣教師より石火矢(フランキ砲)を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる。

 

 

以後、石火矢は火縄銃を大型化した大筒(大鉄砲)と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。

 

なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。

 

 

日本では1590年代から大砲生産が盛んになり、1614年(慶長19年)には大坂の陣に備えて、徳川家康はイギリスやオランダより大口径の前装式青銅砲(カルバリン砲等)を購入している。これらは後に国産化され、和製大砲となる。

 

 

1639年(寛永16年)には江戸幕府が前年の島原の乱における戦訓から、榴弾とそれを運用する臼砲の供与をオランダ商館に求める。

 

ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。

 

1650年(慶安3年)にもユリアン・スヘーデルによる臼砲射撃が江戸で行なわれている。

 

これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。

 

 

1841年には高島秋帆が徳丸ヶ原(現高島平)で日本最初の近代砲術訓練を行い、西洋式の大砲と和製大砲の技術差を露呈した。

 

1850年代に次々と外国軍艦が来航し、国防のため江戸幕府は寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる毀鐘鋳砲の勅諚を発令。

 

 

諸藩は韮山反射炉等の反射炉を建設して大砲を鋳造するなど新技術の導入に力を入れたが、1862年の薩英戦争や1864年の下関戦争で欧米との技術差は実戦により明らかとなる。

 

 

特に下関戦争では、長州藩の日本製32ポンド砲などによる砲台は四国艦隊の艦載110ポンドアームストロング砲などにまったく太刀打ちできず敗北した。

 

 

これらの戦闘の後、薩摩藩や長州藩は主にイギリスから兵器の輸入を進める一方、幕府もフランスの援助を受けて軍の近代化を進めた結果、両者が衝突した第二次長州征伐や戊辰戦争では各地で近代的な大砲による野戦や攻城戦が繰り広げられた。

 

 

フランスで開発された四斤山砲は第二次長州征伐で幕府軍が使用して以降、輸入やコピーが進み、一連の戦争を通じて両者の主力野戦砲となった。

 

 

この頃には諸藩の技術も向上し、上野戦争では新政府側の佐賀藩が製造したアームストロング砲が投入され、会津戦争では新政府軍が焼玉式焼夷弾を会津若松城攻撃に用いた。

 

旧幕府方の長岡藩も北越戦争でアームストロング砲やガトリング砲を使用して新政府軍を苦しめている。

 

 

明治維新後は大砲の国産化が進んだ。

 

 

大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。なお、やや銃との口径の差異が不明確な機関銃でも「砲」と名の付く種類の物も、他の大口径の機関砲に分類される事もある。

 

用途、歴史的分類による種別は以下の通り

 

 

カノン砲 (cannon)

 

 

榴弾砲 (howitzer)

 

 

攻城砲 (siege gun)

 

 

野砲 (field howitzer)

 

 

山砲 (mountain gun)

 

 

臼砲 (mortar)

 

 

迫撃砲 (mortar)

 

 

無反動砲 (recoilless rifle)

 

 

歩兵砲 (infantry gun)

 

 

対戦車砲 (anti tank gun)

 

 

ロケット砲 (rocket launcher)

 

 

対空砲 (anti aircraft gun)

 

 

高射砲

 

 

機関砲 (Autocannon)

 

 

航空機関砲

 

 

戦車砲 (tank gun)

 

 

列車砲 (Railway gun)

 

 

要塞砲

 

 

海岸砲

 

 

速射砲

 

 

原子砲

 

 

自走砲