日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里 | 戦車兵のブログ

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日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』は、1957年公開の日本の戦争映画。

 

山中峯太郎の『敵中横断三百里』が原作。

 

 

日露戦争においてロシア軍の動きを探る斥候隊を描いている。

 

 

原作は戦前、山中峯太郎が日露戦争での秘話をもとに描いた実録小説で、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の『少年倶楽部』に連載された。

 

血沸き肉踊る展開に子どもたちの熱狂的な人気を得て、単行本が大ベストセラーになった。

 

これを戦前に黒澤明と小国英雄が脚色したものを、昭和30年代になって大映で映画化したものである。

 

この映画では北海道の戦車部隊のメッカ北恵庭駐屯地の自衛官が協力し出演していることもあって私の好きの映画の一つだ。

 

 

 

 

映画は日露戦争での建川騎兵斥候隊の活躍を描く。

 

奉天会戦前の帝国陸軍は余力が尽き、ロシアの陸軍との決戦で勝利すること以外に戦争終結の道がなかった。

 

この重大な局面でロシア軍の情報を得ようと斥候隊が編成され、敵地に送られた。

 

モデルとなったのは建川美次陸軍中尉で後に陸軍中将となる。

 

1905年(明治38年)1月、満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の命により、騎兵の機動力を生かした建川挺進斥候隊建川挺身斥候隊)の隊長として5名の部下を率い、ロシア帝国軍勢力地の奥深くまで挺進し1,200kmを走破、将校斥候に活躍。

 

 

日露戦争の決戦である奉天会戦の勝利に貢献したその戦功により、1905年(明治38年)2月、第2軍司令官・奥保鞏陸軍大将より感状を受け、『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』主人公のモデルとなった。

 

 

原作者の山中 峯太郎(1885年(明治18年)12月15日 - 1966年(昭和41年)4月28日)は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。

 

陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。

 

 

本来は陸士18期であった山中であるが、自宅療養のために陸士卒業が1期遅れ(延期生)、1907年(明治40年)5月に卒業(19期)、近衛歩兵第3連隊附。

 

陸士19期は一般に「中学組のみで、陸幼組を含まない」とされるが、山中は陸幼組でありながら19期となったレアケース。

 

陸士在校中に、清国からの留学生と交流を深めた。

 

同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。

 

 

東條英機(陸士17期、陸軍大将、内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長)は山中と同じく原隊が近歩三であり、同じ時期に近歩三で隊附勤務をしており、晩年まで親しい仲であった。

 

 

1941年(昭和16年)に東條が陸軍大臣に就任すると、高名な作家となっていた山中は東條の「私的顧問」の役割を引き受け、例えば1942年(昭和17年)に刊行された『東條首相声明録 一億の陣頭に立ちて』(東條の訓示や演説をまとめた書)は「山中峯太郎 編述」となっている。

 

なお山中は東條より陸士の2期後輩であるが、陸大は山中が明治43年12月入校(25期相当)、東條が大正元年12月入校(27期)であり、山中の方が2年早く入校している。

 

 

1910年(明治43年)11月、陸軍歩兵中尉に進級。

 

同年12月、陸軍大学校に入校(陸大25期相当)。

 

陸大は陸士同期生の1割程度しか入校できない難関であり、何度目かの受験で中尉になってからようやく合格するのが当たり前であったが、山中は少尉で受験しての「一発合格」を果たした。

 

山中は陸士19期(卒業者1,068名)で最初に陸大入校を果たし、かつ陸大25期の中で陸士19期は山中のみであった。

 

 

山中が陸大に入校した翌年の1911年(明治44年)に辛亥革命が起きた。1913年(大正2年)7月に、辛亥革命後に孫文から政権を奪った袁世凱の専制に反対する青年将校たち(その多くが、陸士で山中と交流を深めた清国からの留学生であった)によって第二革命が起きた。

 

 

旧知の中国青年将校らの動きを知った山中は、故意に陸大から退校させられるように振舞い、同年、退校処分となって近衛歩兵第三連隊附に戻った。

 

山中は陸大25期として1913年(大正2年)11月に陸大を卒業する予定であったが、半年あまりの在校期間を残して自ら陸大を去り、帝国陸軍での栄達を放棄する決断をした。

 

これは、一日でも早く休職して中国に渡り、第二革命に参加して同志たる中国の青年将校たちを助けたい一心からであった。

 

 

1913年(大正2年)6月、山中は東京朝日新聞通信員となって上海に渡り、第二革命に身を投じた。

 

同年7月に始まった第二革命は失敗に終わり、8月には終息した。

 

山中は、日本に亡命する同志の中国青年将校らと共に日本に戻った(山中が帰国したのは同年9月)。

 

 

同年12月には再び上海に渡り、翌年の1914年(大正3年)2月に帰国して近衛歩兵第三連隊附となり、軽謹慎1週間の懲罰を受け、依願免官となって軍歴を閉じた。

 

 

山中自身が小説の主人公のような生涯であった。

 

山中は日本で最初の「シャーロキアン研究家」といえるような人物としても知られている。

 

最近、新刊で本屋に山中の「アジアの曙」が売られていたので是非読んで欲しい。

 

 

敵中横断三百里は挿絵が魅力で、その挿絵画集も私の愛蔵書として愛読している。

 

挿絵画家は樺島勝一は、大正末期から昭和前期にかけて次々と「少年倶楽部」(講談社)などの少年雑誌が創刊され、なかでも人気を博していた山中峯太郎・南洋一郎・海野十三等の「軍事・冒険小説」に軍艦・戦車・飛行機・動物などの重厚で細密なペン画を提供し「船のカバシマ」などの異名を得た人物だ。