昭和64年1月7日昭和最後の日 | 戦車兵のブログ

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1989年1月7日、昭和天皇が崩御。

 

明仁親王が即位し今上天皇となり、新元号を「平成」と決定。

 

昭和64年最後の日となった日。

 

 

 

歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。

 

 

大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」する立憲君主制における天皇として日本の降伏において連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。

 

 

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。

 

 

またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。

 

 

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。

 

その後同年8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。

 

 

食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。

 

病名は「慢性膵臓炎」と発表された。

 

同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。

 

 

しかし1988年(昭和63年)になると、体重はさらに激減。

 

同年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。

 

同年9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。

 

 

同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止に。

 

その翌9月19日の午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。

 

その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミ陣はこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道され、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった。

 

 

十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)のため長く療養していたが、1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御。宝算87。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。

 

同日午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官・小渕恵三(後の内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表。その直後、内閣総理大臣・竹下登(当時)が「大行天皇崩御に際しての謹話を発表。

 

 

1989年(平成元年)1月31日、今上天皇(明仁)が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号した。

 

2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

 

 

1988年(昭和63年)以降、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。

 

病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

 

1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。

 

自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した。

 

具体的な行動としては、以下のようなものが行われ、「自粛」は、同年の世相語となった。

 

このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。

 

 

1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と皇太子妃・節子(後に立后して貞明皇后)の第一男子(後に、第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生。

 

身長は1尺6寸8分(約51cm)、体重800匁(3000g)。

 

 

その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち11月末には何歩か歩んでいる。

 

 

明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補をいくつか挙げさせて選定し出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。

 

 

1912年(明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子と共に殉死し波紋を呼んだ。

 

晩年の乃木は学習院院長を務め少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。

 

 

乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になった後も記者会見の中で度々紹介している。

 

迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。

 

迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。

 

これは明治天皇がそう呼ぶように言いつけたもので、ある人が「乃木大将」と呼んだ時には「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したとの逸話も残っている。

 

 

1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意と共に自ら写本した『中朝事実』を与えた。

 

乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。

 

9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。

 

皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した。

 

 

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。

 

大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。

 

翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。

 

1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。

 

1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任。

 

1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

 

 

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王が皇太子妃に内定。

 

 

1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、貴族院皇族議員となった。

 

1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。

 

 

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。

 

1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。

 

同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された。

 

 

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。

 

 

11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。

 

 

11月14日・15日、京都御所に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行。

 

 

1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。

 

9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(後の鷹司和子)が誕生した。

 

 

1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる。

 

1933年(昭和8年)12月23日、自身の五人目の子にして待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し、歓迎祝賀される。

 

 

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。

 

1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。

 

同年12月31日には御前会議を開いた。

 

 

1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に良子皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定。

 

 

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に東京都内の被災地を視察した。

 

 

同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。

 

 

連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。

 

8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した。

 

 

同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた。

 

 

9月27日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。

 

11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。

 

また同年には、神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。

 

 

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。

 

 

1946年(昭和21年)11月3日、大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正するということを示す裁可とその公布文である上諭により、日本国憲法を公布した。

 

 

1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。

 

6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。

 

1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。

 

1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)・増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。

 

28日の新聞は天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、(自衛隊は)旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。

 

増原は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった。

 

 

陵(みささぎ)は、宮内庁により東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵に治定されている。

 

宮内庁上の形式は上円下方。

 

 

皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族とともに祀られている。

 

 

2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、「財団法人昭和聖徳記念財団」が運営を行っている。

 

館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。