南京攻略戦 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。

 

1937年12月13日支那事変で日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結した日。

 

 

南京戦は、支那事変における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京で展開した。

 

日本軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させた。

 

日本軍からは南京攻略戦

 

 

中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある。

 

 

この戦闘の最中に南京事件(南京大虐殺)が発生したとされ、戦後南京軍事法廷や東京裁判で訴追された。

 

ただし、事件の内実については論争がある。

 

 

1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件で日本と中国は全面衝突し、7月末から8月にかけて上海で大山事件など日本将兵が殺害される事件が相次ぎ、8月13日中国軍が攻撃を開始し、第二次上海事変が始まった。

 

8月14日には中国空軍による上海爆撃が実施され、日本軍陣地だけでなく租界地などの歓楽街にも被害が出た。

 

これを受けて日本は8月15日に「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」すると声明を出し、第3・第11師団による上海派遣軍を編成して派遣した。

 

9月2日に「北支事変」から「支那事変」と改称した。

 

 

蒋介石も8月15日に対日抗戦総動員令を発令し、自らが陸海軍総司令官につき、四つの戦区に分けて全面戦争体制を整えた。

 

蒋介石は華北は補給維持が困難であるとして増援せず、主力は揚子江流域都市(南京市など)での決戦に備えて温存すると計画した。

 

 

日本が中国に対し「速戦速決戦略」を採用したのに対して蒋介石の戦略は、華北の日本軍が南下し、武漢地区で中国が東西に分断されるのを防ぐため、中国軍が華北では後退し、 上海に主力を集中して主戦場を華北から華東へと誘致するもので、「日本軍に上海戦場を開かせる」という「持久消耗戦略」であった。

 

また、アメリカやイギリス、ソ連などを日中戦争に巻き込むという政略も採用した。

 

 

 

上海戦で日本軍は苦戦し、9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12388名にのぼり、第9師団は11月の蘇州河渡河までに12360名の死傷者を出した。

 

日本は11月5日、第10軍を杭州湾に、第16師団は白茆口に上陸させ、戦況は一挙に好転した。

 

11月7日に上海派遣軍と第10軍を併せて中支那方面軍として編成した。

 

河辺虎四郎ら参謀本部作戦課は作戦地域を上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線以東に制限したが、武藤章参謀副長らは南京追撃を主張した。

 

 

11月15日、第10軍は「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき」と積極案を出し、独断で進撃を開始した。

 

松井石根中支那方面軍はこれを追認した。

 

制限線撤廃をめぐって激論となっていたが参謀本部も11月24日、南京攻略を容認し、蘇州-嘉興線以東の制限を廃した。

 

方面軍は、上海派遣軍追撃隊は、常州、丹陽、金壇に前身拠点を造り、主力は無錫〜湖州線より東部で準備すると命じた。

 

10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114師団一部は宜興・漂陽へ、18師団追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、主力は後方地区に終結した。

 

最前線の部隊は、中国軍によって徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃をつづけた。

 

 

参謀本部はトラウトマン工作など政治的解決を優先する意見などがあったが、下村定第一部長の意見具申により南京攻略が決定され、大陸命7号によって中支那方面軍の戦闘序列が、大陸命8号によって海軍との共同攻略が下令された。

 

 

中国側は消耗持久戦へ転換させ、ゲリラ戦を発動させた。

 

蒋介石は11月7日の日記で「抗戦持久」が重要で、「遊撃戦を発動し、敵を疲労させる」と書いた。

 

これは中国軍の83個師団約40万の兵力を江北に撤退させる退却掩護作戦でもあり、南京防衛は固守して援軍を待つものでなく、敵軍の消耗を目的としたもので、日本軍進撃を食い止めるために橋梁、道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた。

 

 

T・ダーディン特派員によれば、南京城外15マイルの空野清野作戦は中国軍の怒りとフラストレーションであり、焼き払いは軍事目的には役に立たなかった。

 

さらに敗残兵は後方地域に潜入してゲリラ化して日本軍を襲撃した。

 

 

国民政府は11月19日に重慶遷都を決定した。

 

首都南京からの撤退に蒋介石が反対し、唐生智も南京固守方針を定めた。

 

9か国条約会議が不調に終わってからは蒋介石も和平交渉に乗り気で、12月2日にトラウトマン大使と会談した。

 

 

南京進撃

1937年(昭和12年)
 
11月7日
 
臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限された。
 
 
11月9日
 
上海戦線の中国軍は退却を開始した。
 
 
11月10日
 
ソ連国防部長官ヴォロシーロフは航空機、重砲、ガソリンなどを支援すると張沖に伝える。
 
午後11時50分:歩兵第6連隊長は、地雷排除のほか、「一般の良民は総て城内に避難しあるをもつて、城外に在る一切の者は敵意を有するものと認め、これを殲滅す。」「掃蕩に方りては家屋を焼却するを便とする」という内容の歩6作命第90号を下達した。
 
11月11日
 
南京追撃戦が発起した。

簡略化させた模式図

 

南京陥落

12月13日
 
午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領。
 
同隊中隊長は全員戦死した。
 
午前8時30分、16師団戦車第一大隊は中山門に到着した。
 
13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領。
 
 
揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領し、敵の退路を遮断した。
 
 
夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した。
 
ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた。
 
 
独立軽装甲車第二中隊は雨花台北麓の兵工廟でドック内の中国人遺体400〜500を発見し、同隊本部曹長藤田清は中国軍が退却の際の処理かと推定した。
 
藤田は雨花台付近で婦女子や非戦闘員の遺体は目撃しなかった。
 
中国敗残兵は外国人に身を任せてきて、ダーディン記者に何十挺もの銃を押しつけた。
 
 
日本軍は捕虜政策を実施せず、第16師団中島今朝吾師団長の12月13日の日記が捕虜殺害の証拠として論じられることもあるが、東中野修道は異論を唱えている(南京事件論争)。
 
中国共産党の毛沢東は延安で南京陥落を聞いて大喜びし、祝杯をあげたという。
 
 
午後7時、2~300の中国軍が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃するが、撃退される。
 
 
ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をした。
 
また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった。

 

1937年12月14日
 
午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777を上元門外の学校に収容)。
 
南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)。
 
掃蕩にあたっては(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令され、通訳をつけて問題を起さないように注意もあったという。
 
主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたとして、戦時国際法違反の疑いもあるとして戦後追求された(南京事件(南京大虐殺))。
 
 
昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊があった、彼らは日本軍に包囲されている現状も知らずに戦っていた。
 

南京戦史は、12月4日から13日の中国軍戦死者合計を約29,000と推定する。

 

 

なお、1937年12月29日に上海派遣軍は日本軍戦死800、戦傷4000、中国軍遺棄死体8万4千、捕虜10,500と発表、翌年1月には敵の損害は約8万、遺棄死体は約53,874と算定した。

 

これにつき戦史叢書は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」とし、『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6~7万と比べ著しく過大である」としている。

 

 

戦闘詳報などの公式文書の集計では、日本軍は約27,000人の中国軍の捕虜・敗残兵のうち、、約12,000を銃殺など「処断」、7450名を収容、7850名を釈放、不明が172名である。

 

ただし、『南京戦史』はこの集計は大雑把な目安にすぎず、戦闘詳報は戦果として上申される資料であったことから過大に表示されていることはほぼ間違いないとしている。