【欧州大戦 アルデンヌの森の戦い】 ① 最強の軍事機構 | 戦車兵のブログ

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第二次世界大戦など戦争の証言は日本だけでなく世界に残されている。

 

ドイツ軍は日本の同盟国であったが、ハリウッド映画では「悪役」だ。

 

しかしドイツ軍は精強な軍隊であった。

 

ドイツ国防軍は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍、海軍、空軍の三軍の総体を指す。

 

国家唯一の武装者と定義される存在であったが、当時のドイツにはナチス党の組織である武装親衛隊など管轄外の武装組織も存在していた。

 

 

1935年の再軍備宣言後は徴兵制が復活し総兵力が50万人になり、ポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模であった。

 

 

第一次世界大戦に敗北した後ヴェルサイユ条約の軍備制限条項によりドイツの軍隊は陸軍兵力を10万人に限定され、参謀本部、陸軍大学校、陸軍士官学校、戦車部隊、重火器は禁止された。

 

 

海軍兵力は1万5000人、戦艦6隻、巡洋艦6隻および駆逐艦12隻の保有のみが認められた。

 

 

 

また、航空戦力の保持は禁止された。

 

 

義務兵役制度も廃止された。

 

 

軍を離れねばならなかった旧軍人は巷に溢れ、社会的に不安定な要素となった。

 

 

存続した陸海軍は、皇帝ではなく、国家と憲法に忠誠を誓う Reichswehr と改名。

 

あえて訳せば「国家防衛軍」である。日本語ではドイツ語の「Reichswehr」と「Wehrmacht」のニュアンスの違いを表現できないことから、ヴァイマル共和国時代の軍隊である点を強調して「ヴァイマル共和国軍」と訳し分けることもある。

 

 

 

1920年に陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任したハンス・フォン・ゼークトは軍の政治的中立に重点を置き、軍の充実を図った。

 

 

 

しかし、連合国から課せられた膨大な賠償金や一方的な軍備制限、ポーランドへの領土の割譲等のヴェルサイユ条約への軍上層部の反発は大きく、参謀本部機能を「兵務局」の名称に隠して存続させ、将来の拡充を見越して、下士官に将校レベルの教育を行い、赤軍の協力を得てソ連国内で秘密裏に航空機、戦車、化学戦等の訓練施設を設け、将来の再軍備への準備を怠らなかった。

 

 

事実、ヒトラーがヴェルサイユ条約軍備制限条項を破棄し再軍備を宣言した時、短期間のうちに50万人から成る36個師団の陸軍ならびに空軍を保有することができた。

 

 

一般的にはヒトラーの首相就任後急激に再軍備を開始したという見方が強いが、安全保障を損なうことは出来ないと考えたヴァイマル政府は戦闘機を旅客機、戦車を農業用トラクターと称し、郵便配達人の自衛用との名目で小銃を開発するなど、あの手この手で軍備を整え技術を高めていった。

 

この結果世界初のジェット戦闘機メッサーシュミット Me262、アサルトライフルの始祖StG44 (突撃銃)、初のミサイル兵器V2ロケットなど当時としては画期的な兵器が数多く生み出されることとなる。

 

 

ドイツ軍の伝統には、忠誠対象を明らかにする忠誠宣誓が存在した。

 

ヴァイマル時代には「国家と憲法」に対して忠誠を誓うものであった。

 

 

しかし、ヒトラーが首相となると「民族と祖国」に忠誠を誓うものとなり、国防軍の成立直前には「ドイツ国と民族の指導者であり、国防軍最高司令官であるアドルフ・ヒトラー」(Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, der Oberbefehlshaber der Wehrmacht)個人に忠誠を誓うようにと変更された。

 

 

開戦から1941年頃までは優れた戦術と戦略で連合国を圧倒したが、1941年6月の独ソ戦開始以降、厳しい気候と赤軍の粘り強い抵抗によって次第に消耗していった。

 

 

1941年の冬に陸軍参謀本部と司令部は後退を求めるようになり、退却を許さないヒトラーと対立した。

 

この時にはヒトラーの判断が功を奏して戦線崩壊を免れたが、ヒトラーに反対した陸軍総司令官や参謀総長、多くの将軍が更迭された。

 

 

 

ヒトラーは自ら陸軍総司令官を兼任し、独ソ戦の指揮に強く介入するようになった。

 

1942年のブラウ作戦はヒトラーが自ら大綱を書き上げたものであったが、攻勢は不十分に終わり、スターリングラード攻防戦では大きな損害を出した。

 

 

陸軍元参謀総長ルートヴィヒ・ベック将軍らは戦前から反ヒトラーグループを形成しており、何度もヒトラー暗殺を計画していた。

 

 

1944年7月20日、総統大本営においてヒトラー暗殺計画とそれにともなうクーデターを実行しようとした。

 

しかしヒトラー暗殺には失敗し、ベックらのクーデターの呼びかけに多くの国防軍軍人は従わなかった。

 

 

しかし事件後には親衛隊の追求が国防軍上層部にもおよび、エルヴィン・ロンメル元帥らといった国防軍軍人が粛清された。

 

 

その後連合国の反攻によっていよいよ損害を重ね、1945年5月8日、国防軍最高司令部総長カイテルが降伏文書に署名した。

 

 

ニュルンベルク裁判ではナチ党指導部、親衛隊等とは異なり、犯罪組織としての認定は行われなかった。

 

1946年8月20日、連合国管理理事会が発出した連合国管理理事会命令34号によって国防軍は正式に解体された。

 

 

武装親衛隊は、国家社会主義ドイツ労働者党の親衛隊における武装組織である。

 

アドルフ・ヒトラーが政権奪取後、国家唯一の兵器の保有・携帯を許される組織(Waffenträger der Nation)である国軍の反逆から、あるいは国内の騒乱から自身を守らせるために設けた、軍ではなくまた警察でもない、政治的に信頼できる親衛隊員から成るナチスの武装部隊である。

 

つまり国家の軍隊ではなく、党もしくはヒトラー個人の私兵である。

 

 

国防軍とは異なり基本的に志願兵制であったが、後の外国人義勇兵師団や囚人部隊、また初期からある師団でも兵員不足により、半ば強制的に入隊させられる場合もあった。

 

 

当初、入隊にあたってはヒトラーのゲルマン民族に対する優生思想やナチズムに基づいて隊員が選ばれ、ユダヤ人、ポーランド人などの非ドイツ系民族や容姿の劣る者は入隊をゆるされなかった。

 

 

親衛隊の指導者であるハインリヒ・ヒムラーが述べたように、武装親衛隊の第一の目標は、ユダヤ人や、ナチスのイデオロギー上劣っていると見なされていた人種との闘いであった。

 

 

もっとも、兵員の不足した大戦後半には、当初の理念に反し外国籍のドイツ系兵士や外国人兵士が半分以上を占めるに至った。

 

 

 戦後になると、武装親衛隊はホロコーストや虐殺などの戦争犯罪に携わった犯罪組織であると見なされるようになった。

 

ニュルンベルク裁判においては武装親衛隊を含む全ての親衛隊組織は「犯罪組織」であると宣告された。

 

 

 

 

親衛隊の武装組織の発展は、1933年、ヨーゼフ・ディートリヒが指揮するヒトラー個人の警護部隊「Leibstandarte SS Adolf Hitler」に始まり、1935年、パウル・ハウサーが「親衛隊特務部隊」の名称で部隊編制を許され、テオドール・アイケも強制収容所監視部隊のSS髑髏部隊から1939年にSS髑髏師団を編制する。

 

 

しかし、「第二国軍」への伸張を憂慮する陸軍に配慮して1942年まで軍事予算ではなく、内務省の警察予算で賄われていた。

 

 

軍事的な発言権を求める親衛隊全国指導者(親衛隊の長官にあたる)であるヒムラーは、第二次大戦開戦時で僅か三個連隊の親衛隊特務部隊をポーランド戦に出動させた。

 

 

フランスに大勝した後、1940年11月上旬に親衛隊の武装部隊は「親衛隊特務部隊」から公式に「武装親衛隊」の新しい統一名称の下、「パレードするだけのアスファルト兵士」から、実力を伴う「野戦部隊」として認知された。

 

 

1943年頃になると戦況が悪化し始め、外国人が応募か徴兵され始めた。

 

 

武装親衛隊は特に東ヨーロッパにおける残虐行為に積極的に関わり、ニュルンベルク裁判において「犯罪組織」として断罪されている。

 

そのため戦後、武装親衛隊退役者は国防軍退役者と異なり軍人年金支給等が拒絶されており、ドイツに留まった元武装親衛隊高官らを中心に近年まで「武装親衛隊はあくまでも軍人として行動したのであって、親衛隊とは無関係である」として軍人年金を要求する運動が行なわれていた。

 

 

国外から一見すると武装親衛隊の退役者は口をつぐんで、みだりに告白することを避けていることからすでに完全に消滅したものと思われている。

 

しかし元来非常に政治的イデオロギーの強い組織であったため各退役者の政治への関心が強く、旧武装親衛隊員相互扶助協会(HIAG)などの団体が主宰する催しがドイツ中で行なわれていた。

 

HIAGは1992年に解散したが、それまでは連邦憲法擁護庁によって監視団体の一つに指定されていた。

 

 

武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。

 

義務兵役年齢に達した青年男子は居住する軍管区に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、完全志願制であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで募集活動する必要があった。

 

 

初期においては外見や血統、体力や政治的な信条で入隊の可否を決めており、出身階層や学歴は考慮されていなかった。

 

このため戦前に入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベルの学校教育しか受けていない者たちであった。

 

 

武装親衛隊の制服は体裁が良いと若者には評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、兵役負担を軽減するためにも武装親衛隊に志願する若者が多くいた。

 

ノーベル文学賞作家ギュンター・グラスは1944年当時17歳で志願し第10SS装甲師団の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して、世間の耳目を集めた。