朝鮮戦争釜山攻防戦 | 戦車兵のブログ

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釜山橋頭堡の戦いは、1950年の8月から9月にかけて、釜山付近に集結したアメリカ軍を主力とする国連軍と、朝鮮半島の大部分の地域を制圧していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。

 

 

第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将が、朝鮮半島の過半を北朝鮮軍が手中にしている状況で、全前線を後退させることで戦闘正面を縮小して兵力を集中させる「朝鮮戦争で一番重要な判断と決心」を行い、これを実行した。

 

 

 

この戦闘により、国連軍は、1950年9月10日に開始された仁川上陸作戦の成功により反撃に転じるまでの間、釜山を保つことに成功した。

 

 

 

1950年6月25日の北朝鮮の奇襲攻撃による開戦以来、大田の戦いに至る遅滞戦闘でアメリカ軍は大きな損害を受けていた。

 

 

ソウルと釜山のほぼ中間点にある大田(テジョン)は京釜本道や京釜線が通る交通の要衝で、ソウルを追われた大韓民国(韓国)政府の臨時首都でもあった。

 

アメリカ軍、韓国軍は大田を中心として北朝鮮軍を迎え撃ったが7月20日に北朝鮮軍2個師団の包囲攻撃で陥落して、韓国政府は大邱(テグ)に後退した。

 

 

開戦から戦い続けていたアメリカ軍第24歩兵師団は一連の戦闘で兵力の45%(7,305名)、装備の60%を喪失し、師団長であるディーン少将が捕虜になる大敗を喫した。

 

 

韓国軍は、首都師団(金錫源准将)と第2師団が第1軍団(金弘壹少将)を構成して洛東江北岸の安東地区の防御を行った。

 

北朝鮮軍は第2軍団の第12師団が安東を強襲したが、韓国第1軍団を撃破できずにいた。

 

しかし韓国軍は8月に安東を撤退して洛東江防御線の陣地に移動した。

 

 

 

 

アメリカ軍第29連隊は沖縄で兵員未充足の状態にあったが、7月12日に「6週間の訓練を受けた後に」朝鮮半島に移動する予定の命令を受けた。

 

しかし第8軍の援軍要請により実戦投入の前に訓練を行う時間の余裕はなかった。

 

 

7月20日にアメリカ本土から到着した新兵400名で第1・第3大隊を定員(883名)に充足させると、7月21日には「釜山で10日間の訓練を行う」予定で第1・第3大隊のみの編成で那覇を出発した。

 

 

7月24日に釜山に到着したが、受領した火器の調整点検などを3日間の訓練期間に行うはずが、直ちに晋州に前進し第24歩兵師団の指揮下に入る命令を受け、点検も行わずに列車で出発した。

 

 

7月25日の午後に晋州に到着すると、第19連隊(ムーア大佐)の指揮の下、第1大隊(ウィルソン中佐)は安義地区の防御を、第3大隊(モット中佐)は北朝鮮軍の接近経路の集約点になっている河東(ハドン)の奪取を命ぜられた。

 

 

河東攻撃は晋州防衛のための時間稼ぎのためであった。

 

第3大隊長モット中佐は、砲兵の援護もなく兵員も訓練不足のため、進撃せず防御戦を行う意見だったがこれは容れられなかった。

 

第3大隊は7月26日の午前0時30分に晋州を出発したが、中途に北朝鮮軍の大部隊が存在する情報を得た。

 

 

副大隊長のライブル少佐が再度の防御戦の具申を行ったが、ムーア大佐には認められなかった。

 

 

第3大隊は行軍中に戦術航空統制班が追加され、7月27日に空軍が行う河東爆撃の後に攻撃を開始することとなった。

 

 

しかし行軍中に北朝鮮第6師団(方虎山少将)の待ち伏せ攻撃にあった。

 

北朝鮮第6師団は河東付近で兵力を二分し、一部を河東へ、主力を河東峠に配置してアメリカ軍を待ち伏せていた。

 

高地からの待ち伏せ攻撃による最初の一撃で大隊本部の過半の将校が負傷した。

 

 

大隊には朝鮮戦争開戦時の韓国陸軍参謀総長で6月30日に解任された蔡秉徳少将が通訳兼ガイドとして同行していたが、蔡少将もこのとき戦死した。

 

これは朝鮮戦争初期の国連軍将官の被害、ディーン少将に続く2人目の被害であった。

 

 

戦術航空統制班の無線車や大隊の指揮車も破壊され、指揮官を失った部隊は潰走した。

 

 

第19連隊は、7月16日の大坪里の戦いにおいて第1大隊が壊滅していたため、大田の戦いでは第2大隊(マックグレィル中佐)のみが第34連隊(ビューチャンプ大佐)の指揮下に戦闘に参加していた。

 

 

その後再編成を行ない、この時点では晋州において第1大隊(リー中佐)と第2大隊(マックグレィル中佐)に第29連隊の残存が加わるなどして、総員で1,000名足らずになっていた。

 

 

しかし対する北朝鮮軍を第4師団の一部のみであると判断しており、防御可能だと考えていた。

 

 

晋州の防御は重視されており、日本の兵器廠にあったものを修理して朝鮮半島に急送したM26パーシングが3輌配備されていた。

 

 

北朝鮮軍は7月29日の正午頃、晋州の西南10キロメートル付近で中隊を撃退すると、30日の早朝には第2大隊の正面を北上した。包囲を恐れた第2大隊は南江東岸に後退した。

 

 

30日の夕方から第2大隊への攻撃が開始され、31日午前5時、大隊主力の陣地に北朝鮮兵が突入した。

 

 

7月31日の午前6時頃、晋州市街は北朝鮮軍の戦車、自走砲の射撃を受けるようになり、午前6時45分に第19連隊は後退、晋州を失った。

 

 

3輌のM26パーシングは機関の不調から遺棄された。

 

 

7月26日、第8軍司令官ウォーカー中将は、戦線を縮小するための後退準備命令を発した。

 

 

7月27日、ダグラス・マッカーサー元帥が乗機「バターン号」で大邱に訪問すると、ウォーカーと秘密会談を行った。

 

 

マッカーサーは第8軍を督励すると、第二次世界大戦初頭にイギリス軍がドイツ軍によりヨーロッパ大陸から追い落とされた際の撤退作戦になぞらえ「韓国にダンケルクはない」と訓示し、撤退しない方針を示した。

 

 

7月31日、晋州の陥落により、錦江から小白山脈における西南部戦線の状況が判明した。

 

捕虜の証言と無線傍受情報によって西南部戦線に北朝鮮軍2個師団が存在することが判った。

 

なかでもその所在が判らなかった北朝鮮第6師団が朝鮮半島南部の海岸線を東進して馬山に迫っていた。

 

 

この情報から、ウォーカーは兵力不足から西南部戦線での防御を断念した。

 

ウォーカーの重大な決心により、麾下のアメリカ軍、韓国軍の全戦線で洛東江(ナクトンガン)東岸に後退するように命令した。

 

各師団には8月1日に下達され8月2日から後退を開始した。

 

 

事態は急変しており、9月中旬の実行を立案されていたクロマイト作戦で上陸部隊に充てられる予定であった部隊を釜山に配備することとなり、日本に駐留していた部隊やヨーロッパに増派する予定だった部隊も朝鮮半島に投入した。

 

アメリカ軍の戦争指導計画は大きく変更された。

 

 

アメリカ本土からの増援部隊が7月31日から続々と釜山港に到着予定であり、増援部隊が釜山に上陸するのが先か、北朝鮮軍が釜山を陥落させるのが先かという状態は、まさに時間との戦いであった。

 

 

洛東江防御線は、慶尚北道から慶尚南道にかけて北から南に流れる洛東江を南北約135キロメートルの線、大邱の北方から日本海に向けて東進した東西約90キロメートルの線で朝鮮半島南部の要地を包み、この範囲にアメリカ軍、韓国軍共に後退した。

 

 

洛東江防御線はその約4分の3の場所で洛東江を障害として利用可能で、渡河能力の低い北朝鮮軍には効果的な陣地だった。

 

また大邱と馬山を内包していることは政治的にも心理的にも重要で、範囲内の交通網を用いることで兵力の移動が容易で反撃に有利であった。

 

北側の防御線では釜山の補助港として重要な浦項と、前線航空基地で、海軍の空母艦載機の緊急着陸場として重要だった延日(ヨンイル)飛行場を内包した。

 

河川を防御に使うことで上空からの目標線にもなり、航空支援も行いやすかった。

 

 

ウォーカーは防御陣地の構築にあたり、

  • 薄い前哨地帯を築き、その後方に強力な予備の機動部隊を配す
  • 敵戦車の攻撃ルートに対し砲撃準備を整えておく
  • 大隊以下の規模の防御陣地では、鉄条網に囲まれた縦深陣地を作り地雷を埋設する

などの基準を設けた。

 

 

ウォーカーは司令部にほとんどおらず、上空から敵陣を偵察した。

 

パイロットは「撃たれるまで近づけ」と命令されており、危険なほど低空を飛行した。

 

偵察が終わると2台のジープで隊列を作り安全速度を超えるスピードで釜山橋頭堡内を走りまわり、各前線で状況の把握に努めた。

 

ジープには地雷対策に車体下面に装甲板を貼り、手すりと周囲を見渡す昇降台が追加され、ボンネットにブービートラップを切断するためのワイヤー・カッターを取り付けていた。

 

 

ウォーカーは1950年12月23日深夜、米第24師団と英第29師団を視察するために、自身が運転する専用の前線視察用ジープで幕僚の中佐とともに、ソウル北方を移動している時に事故は発生した。

 

 

このとき米第24師団には息子のサム・ウォーカー大尉(のち大将)が所属しており、訪問を兼ねてのものだった。

 

 

議政府市南方5kmの街道上で、韓国軍第6師団第2連隊所属のトラックと接触事故を起こし横転、車輌の下敷きとなった。野戦病院に収容され、同乗していた中佐は重傷だったが、ウォーカーはほぼ即死の状態だった。

 

死後は陸軍大将に任じられ、アーリントン国立墓地に埋葬された。

 

 

事故の起きた12月23日は、東條英機ら絞首刑の執行から丁度満二年後の祥月命日(三回忌)にあたる。

 

ウォーカーが落命した時刻までが一致したので、周囲には七士の祟りと思った者もいる。

 

 

国連軍はそれまでの戦力の逐次投入による受け身の遅滞行動ではなく、北朝鮮軍の強制に依らずに釜山橋頭堡へと後退することで戦線を構築し、敵攻勢正面に対する機動反撃の反復を行い北朝鮮軍の攻撃に耐えた。

 

 

戦場では常に2機の戦術航空統制班が在空し、地上からの援助要請に応えた。第5空軍は7月30日の段階でジェット戦闘機F-80を626機、F-51を264機を保有し、日本の板付基地や朝鮮半島東岸の延日飛行場から出撃した。

 

 

近接支援出撃機数は、7月が4,436機、8月が7,028機、9月が6,219機であり、8月で1個師団あたり1日平均で40機が支援に出撃した。

 

 

アメリカ極東空軍は7月から8月の間にジェット戦闘機F-80を装備した6個飛行隊を、低空での行動半径のより長いレシプロ戦闘機F-51に機種改編した。

 

 

戦闘爆撃機の誘導を行う前線航空管制官は2個飛行隊50機が展開し、制空権を持たない北朝鮮軍に対し昼間の戦闘で大きな効果を上げた。

 

 

釜山攻撃に兵力を集中していた北朝鮮軍は後背の占領地に兵力をほとんど配置しておらず、一連の戦闘で策源地となる北朝鮮本土から遮断されることとなった。

 

 

第8軍と第7歩兵師団はソウルと釜山を連絡する京釜本道を南北から合流することに成功し、北朝鮮軍は朝鮮半島南西部に包囲され壊滅した。

 

 

釜山橋頭堡の戦いはかなりまとめるのが大変なのでこれくらいにします。

 

かなり省略してしまった、これは時間のかかる題材だった・・・・。