減りゆく戦争の生き証人 | 戦車兵のブログ

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10月16日は大東亜戦争で戦った、生き証人の訃報が相次いだ。

 

大きな戦争の記憶の境目となるような日だったのかも知れない。

 

 

戦艦大和通信士としてマリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に参加された海軍兵学校72期の都竹卓郎氏。

 

戦後北海道大学を卒業、戦後日本大学理工学部教授となった。

 

若手の海軍士官としてレイテ海戦へ、「大一番のいくさ。だから高木さんなんかは、栗田さんが兵学校の校長になったときに、レイテの敗将が俺を兵学校の校長にしたなんて言っているけどさ、あの時期になってね、敗将でなかった日本のアドミラルなんて1人もいないですよ。つまり誰がやっても駄目だった時期ですね。言ってしまえば。だから栗田さんだから敗将になったわけじゃない。

レイテの海戦が終わって、第一戦隊が結局解散になったんですね。「武蔵」が沈んじゃったし。それから、「金剛」も失われたし。それで伊藤さんが司令長官として帰ってきたら、栗田さんから伊藤中将に変わったわけですけど、もうそのときは大和は相棒がいないわけです、戦隊を組むにも結局。大和は(第)二艦隊の単独旗艦っていうことになって、伊藤(整一第二艦隊司令官)さんはあの将旗を大和に揚げて。あと第二水雷戦隊の駆逐艦と。もう油がないものですから、唯一稼働な十数隻分だけ、これだけに戦闘力を持たせて、他の戦艦とかは岸につないじゃった。完全に日本が半身不随になっていた時期ですからね。」という証言を残している。

 

 

海軍兵学校66期、谷川清澄氏は海軍少佐、海上自衛隊海将であり、敵兵を救助せよ!」で有名となった「雷」の元航海長であり、「たとえ敵兵でもまだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、特別なことをしたわけではないのです。すっかり美談のようになってしまっていますが、当時の日本海軍では普通の行為だったと思います。(工藤艦長は甲板の敵将兵に向かって『只今から諸子は帝国海軍の名誉あるゲストである』と語りかけた)」という証言を残しています。

 

ミッドウィ海戦では、駆逐艦「嵐」の水雷長として空母赤城に雷撃し処分した方でもあった。

 

『3000メートルの距離から撃つんですが、涙が出てもう止まりませんでした。不思議なことに真っ直ぐ進んでいた魚雷があと500メートル、と言うところで海面に顔を出しました。2秒くらい遅れて、また海中に沈んで命中しました。「魚雷はさようならの挨拶をするために顔を出したんだろうな」皆で言い合いましたよ。一発目は命中しましたが沈む様子がない。よっぽど堅牢にできていたんだなと思いました。』

 

 

そして激戦地ペリリュー島の玉砕後の昭和22年4月22日にようやく投降した34人の一人であった元海軍二等兵曹の土田喜代一氏。

 

 

ペリリューに米軍が上陸した時の土田氏の証言「私たちは20人ばかりの見張りで、朝昼ずっと、戦闘指揮所の上にのぼって船と空の見張りをしていたわけですが、もうそのころはサイパン、テニアン、グアムで戦う時にペリリュー島の飛行機は全部応援に行って、一つも帰ってこなかったわけです。それで、これはもう、いよいよ最後の時が来たなと、玉砕も覚悟して、死んでもこの島を守らなければいけないということで。それはもう、陛下のため、国のためと思って死ぬ思いで戦ったもんですから。ここで会わせて、陛下も、靖国神社にまつられている人も、喜ぶんじゃなかろうかと思うわけなんですが。陛下からはどんな質問をされるだろうかと、私には頭がくらくらして、わかりません」

 

 

ペリリューの激戦では、「海軍の通信壕から兵が3名、地雷をもって攻撃した。中隊長が『戦車攻撃に出る。3名だ』ということで、すると最初に出たのが陸軍の伍長ぐらい。2番目に出てきたのは海軍の陸戦隊。『もう1人誰かいないか』というところで、死ぬのは覚悟しとったけどちょっと早いな、どうしようかと思っていたら、そのときにパッと手を挙げた小寺亀三郎という1等兵がいた。おそらく実弾を撃ったことがない人間だったが、パッと手を挙げて『小寺一等兵、参ります。両親から死ぬときは潔く死ねと言われました』と言って、出て行った。その後、5人ほどで水を汲みに出て行ったら、戦車が真っ赤に燃えて、敵が死んでいた」

 

 

大東亜戦争を戦い抜いた3人の元帝国海軍軍人が亡き戦友のもとへ旅立ちました。

 

慎んで御冥福をお祈りします。