ペリリューの戦い | 戦車兵のブログ

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パラオにあるペリリュー島。

 

私はペリリュー島の慰霊祭に参加したことがある。

 

ペリリュー神社での慰霊祭は、ペリリュー神社を建立した神主さんや日本航空学園の生徒さん達と行った。

 

学園の生徒さんが「海ゆかば」を斉唱された時、となりに居た参列者の男性が泣き出した。

 

後で聞くと「海ゆかば」が歌われると急に涙がこぼれどうにもならなくなったのだと・・、歌が終わったらすーーーっと軽くなって涙も止まったと言う。

 

ペリリューは小さな島だ、そこに水戸歩兵第二聯隊と高崎歩兵十五聯隊歩兵二個大隊の10900名(内軍属3000)に対し米軍5400名が激戦を繰り広げた。

 

今もその傷跡が残るペリリュー島で何があったのか?

 

 

ペリリュー島での戦いは日本側の生存者が極めて少ない。


戦死 10,695名、捕虜 202名そして生存者は34名だった。

米軍側の損害
戦死2,336名、戦傷8,450名、戦病者2500名以上であった。




歩兵第二聯隊長は中川州男大佐であった。

実は、ペリリューには中川大佐より上の村井権治郎少将が居た。

それは何故か?

海軍もペリリューに居たが中川大佐と同じ大佐の指揮官で「陸軍の大佐の指揮下になぜ同格の海軍大佐が入るのか」と横槍が入り、陸軍は村井権治郎少将を派遣したのだ。

村井権治郎少将は中川大佐に口出しもせずに運命を共にした。

中川大佐は戦死後二階級特進で中将へ、村井少将も中将となったが・・・。

ペリリューの戦いを語る時、中川大佐以下となるのは自衛隊出身者からすると違和感があるのだが、実際に指揮は中川大佐が執っていたのだから・・・・、現地の慰霊碑に村井少将のことがかろうじて書かれてあって涙が出た。

海軍の対面を保つためだけに村井少将は・・・。

その海軍は戦闘中に大発に乗って敵前逃亡の集団脱走をやって後にペリリューへ送り返されている。

ペリリュー戦でもあまり語られない話だ。



 

第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置した。

 

 

彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えた。 (アメリカ軍がマリアナへ侵攻すると、ペリリューには更に第14師団戦車隊ならび歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が増援された。)

 

ペリリューの戦いにおける日本軍の戦闘方針は、情報参謀堀栄三が作成した『敵軍戦法早わかり』の内容を元に計画されたものであるという(昭和19年3月、第14師団に対し大連にて、米軍の戦法その他について堀から直接説明の場が設けられた。中川州男大佐はこの場で熱心にメモを取り、時にはみずから質問していたという)。

 

この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとった事で日本軍の損害が非常に増えていた側面があった。

 

パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将(当時)は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していたのだが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなった。 

 

それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのである。

 

 

ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなった。

 

その師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験していた。

 

 

 

 

アメリカ軍は8月下旬からビアク島などニューギニア北西部からの陸軍爆撃機、9月6日からの海軍艦載機による予備爆撃に加え、9月12日からは戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)、重巡洋艦5隻(コロンバス、インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)、軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)、駆逐艦14隻からの艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火も始めて、島内のジャングルを焼き払った。

 

 

上陸前と上陸時の支援として撃ちこまれた艦砲は合計6,894トンにおよび、支援射撃を指揮していたジェシー・B・オルデンドルフ少将は当時としてはもっとも完全でいかなる支援より優れていたと評価していた。

 

3日に及ぶ激しい砲爆撃は、構築された障害物や防御施設を見渡す限り吹き飛ばしたが、それらはアメリカ軍の上陸を遅延させる為に設置された偽装にすぎず、日本軍の主抵抗線はほとんど無傷であった。

 

日本軍はアメリカ軍の上陸が予想される日本軍が西浜と呼称していた南西部海岸に「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」「アヤメ」「レンゲ」と名付けた陣地を事前に構築していたが、それらの陣地は珊瑚礁の固い台地を利用した歩兵2〜3人が収容できる遮蔽された歩兵壕が無数に掘ってあった。

 

 

また小さな鉄筋コンクリート製のトーチカも築かれ、速射砲が配備されていた。内陸部には、野砲や迫撃砲を配置するトーチカも築かれ、最も堅牢なものは1.5m厚のコンクリート製で出入り口にも分厚い鋼鉄製の扉が付けられていた。

 

 

これらの火砲は海上の艦船や航空機より直接は攻撃できないように工夫された配置になっており、高台にいる観測兵により正確な砲撃要請が行える体制となっていた。

 

 

 

 

 

上陸当日の9月15日午前5時半から西浜の海岸一帯への艦砲射撃が始まり、8時の上陸開始の少し前に艦載機50機の爆撃へ切り替わり、それから日本側の砲撃を妨害するため発煙弾が打ち込まれて、上陸支援艇からの近距離援護射撃の下、第1, 第5, 第7海兵連隊の3個連隊12,000名を主力とする海兵隊が、第1波4,500名を皮切りに第6波までに分かれて上陸を開始した。

 

 アメリカ軍は上陸地点の南北3km弱の西浜を北からホワイト1, 2、オレンジ1, 2, 3というコードネームで5つに区分していた。

 

 

「海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」という説は誤りである。

 

ホワイトには第1海兵連隊、オレンジには第5、第7海兵連隊が向かっていたが、各連隊が向かっている海岸には日本軍の構築していた各陣地が待ち構えていた。

 

 

日本軍は中川大佐の命令により、敵を徹底的に海岸に引き付ける事としており、兵が逸るのを抑えて射撃を自重させていた。

 

アメリカ軍の上陸部隊は態勢を立て直すとまた海岸線への接近を再開したが、100m〜150mの至近距離まで接近したところで、射撃開始の命令が下された。

 

特に中川大佐直轄であった野砲大隊と九一式十糎榴弾砲は、山腹の洞窟陣地に配置されており砲爆撃にもほとんど損害はなく、眼下に群がる敵に「この時こそ天がわが砲と我々に与えし好機なり」と自信をもって砲門を開き、上陸用舟艇に一斉射撃を加えた。

 

 

日本軍の激しい砲撃で、珊瑚礁は大小の穴だらけとなり、上陸用舟艇やアムトラックは次々に炎上し、海兵隊の兵士が吹き飛ばされた。

 

その為、大損害を蒙った第1波上陸部隊が煙幕を焚いて一時退却するという場面すらあった。

 

それにもかかわらず第1波の上陸から1時間後には、アメリカ軍の第2波上陸部隊が西浜に殺到した。

 

 

海岸地区や飛行場周辺の攻防では、アメリカ軍に多大な損害を与えたものの、日本軍陣地と部隊もほぼ壊滅した為、中川大佐はかねてよりの師団作戦命令の通り、ペリリュー島の山岳地帯に500個以上は存在すると思われる洞窟を駆使した持久戦術に移行した。

 

「外に出て攻撃を仕掛けると、戦車と航空機と艦砲射撃が待ち構えている。その手には乗らず、敵が近づいて来たら狙撃せよ。容易く死なずに永く生きながらえて一人でも多くの敵を殺せ」と厳命した。

 

アメリカ軍は太平洋の他の島で繰り返された、日本軍の盲目的なバンザイ突撃を圧倒的な火力で撃滅するという展開を望んでいたが、その傾向は全く見えず、後にペリリュー守備隊を賞して「これまで出会った中では、最も優秀と思える兵士で、率いる将校も、敵の圧倒的な火力の前に無駄死にする無意味さを理解し、アメリカ軍の術中にはまらない決意に満ちていた。」と評価している。

 

中川大佐の戦訓情報により後の硫黄島の戦いでは栗林中将はペリリューの戦訓を活用した。

 

 

洞窟陣地攻撃に威力を発揮したのはM4戦車であった。

 

戦車は洞窟を発見すると片っ端から砲撃を加え、1両当り1日で30か所の日本軍陣地を破壊していた。

 

 

しかしM4戦車の損害も大きく第1海兵師団の30両のM4戦車の内、高地戦に至るまでに10両が破壊されていた。

 

残りのM4戦車はその破壊されたM4戦車から砲弾を回収して戦わなければならないほど弾薬の消費も激しかった。

 

また、日本軍はハッチから身を乗り出す戦車長に射撃を集中し、第1戦車大隊の戦車将校31名の内23名が死傷し、無事だったのはたった8名と戦車に乗車しておきながら高い死傷率となっている。

 

 

11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。

 

村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。

 

 

 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなった。

 

 

南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになった。

 

 

戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見した。

 

二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬された。

 

ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国の為に、全員忠実に戦死せり」と書かれた。

 

 

アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。

ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価している。

 

 

ペリリューの島民が戦後に島へ帰ると、夜になると日本兵の叫び声が聞こえて怖かったと聴いた。

 

しかし、ペリリュー神社が建立されるとそういう声は聞こえなくなったとか・・・。

 

私はペリリューから帰り、3ヵ月後にペリリュー島の慰霊碑の前に立っていた。

 

茨城県護国神社の境内に・・・、まるで導かれるように立っていた。

 

旅行では護国神社へ行く予定ではなかったのだが、偶然行くことになり社殿でなく慰霊碑へ足が向いて真っ直ぐ慰霊碑へ行ったのだった。

 

慰霊碑に頭を下げたその時、なんだか肩の荷が下りたような気がした。

 

そんなこともありました・・・・。