ガダルカナル島の戦いと言えば北海道人として先ず思い浮かべるのが一木支隊だ。
一木支隊はガダルカナル奪還のため急派され一夜にして全滅してしまった。
全滅した8月の夜、歩兵第二十八聯隊に軍旗を奉じた一木支隊長以下帰還した。
魂魄となって南の島から北海道旭川へ帰還したのだ。
そんなガダルカナルの戦いは飢えとの戦いでもあった。
以下産経ニュースより転載
73年前の8月、太平洋のガダルカナル島(ガ島)で激戦が始まった。九州ゆかりの部隊も、飢えに苦しみながら戦った。
戦後73年が経過し、戦争体験の継承は難しくなった。
それでも、先人の死に少しでも報いようと、最期を知りたいと願う遺族や、戦いから教訓を引き出したいという人がいる。(大森貴弘)
「叔父 どんな思いで死んだのか」
福岡県行橋市の不動産業、江本満氏(47)は、赤茶けたベルト通しを、自宅の仏壇で大切にしまっている。
大正10年生まれの伯父、金次郎氏の遺品だ。
金次郎氏は、ガ島で亡くなった。
戦死公報には「昭和18年1月15日午前8時30分、アウステン山に於(お)いて戦死」とある。
金次郎氏の母、つまり江本氏の祖母は、「砲弾が足に当たって死んだ」と聞いたという。
遺骨はなく、ベルト通しだけが帰ってきた。
一度も会ったことのない伯父だが、江本氏は身近に感じてきた。
祖母は「金ちゃんが生きていたら」が口癖だった。
他の伯父も、ことあるごとに金次郎氏を話題にした。
何より生前の写真を見ると、江本氏自身にそっくりだった。
「真面目で物静かで、稼いだお金は、全部実家に送金したそうです。それでいて力は強く、軍の相撲大会で優勝したこともあったとか。似ているだけに、あこがれの存在でした。昔から、つらいことがあるとよく伯父のことを考えました。食料も弾薬もない中、どんな思いで死んでいったんだろうって…」
菊部隊敗るるとき
金次郎氏は、歩兵第124連隊に所属した。
陸軍は、地域ごとに連隊を設け、「郷土部隊」として動員した。
隊員は「故郷に恥をかかせられない」と戦陣で功を競った。
124連隊は昭和12年9月、現在の舞鶴公園(福岡市)で編成された。
福岡県出身者が多かった。
通称は「菊部隊」だった。
「帝国陸軍でもナンバーワンを誇る部隊であり、菊部隊敗るるときは日本敗るるときなり、と自負していた精強部隊であった」
124連隊所属の元陸軍伍長、高崎伝氏は著書「最悪の戦場に奇(き)蹟(せき)はなかった」にこう書いた。
中国大陸からボルネオ島、フィリピン。
精強部隊は、激戦地を渡り歩いた。
17年8月、ガ島に米軍が上陸した。124連隊は、米軍を島から追い落とす作戦に投入された。
ガ島は「餓島」だった。
補給がままならず、日本軍は、敵軍に加え、飢えや病気との戦いに苦しんだ。
「乾パンはもちろん、コンペイ糖まで粒で数えて配られ、ミカンも1個を数人で分けて食った。それも不足すると、ハチやアリの巣を捜してゆがき、レンコンのように刻んでほおばり、木の実を拾った。1メートル以上もある大トカゲを撃ち殺してたいらげ、大トカゲが一匹もいなくなると、チョロチョロと赤い舌を出してはい回るトカゲをも食い尽くした」(杉江勇著「福岡連隊史」)
それでも、124連隊は島を見下ろす要地、アウステン山を守り続けた。
ガ島から、全ての日本軍が撤退したのは18年2月だった。
3千人以上いた124連隊は、200人余りになっていた。
高崎氏の「最悪の戦場に奇蹟はなかった」にはこうある。
「ガ島で餓死、あるいは戦病死した者たちは、そこがあまりにも悲惨な戦場であったため、全員が戦死とされ(中略)ガ島の戦死者2万余名で、真の戦死者は4分の1以下であろうか」
「感謝は尽きない」
金次郎氏はガ島に渡る直前、戦友と3人で撮った写真を実家に送っていた。裏にはこう書かれていた。
今川村中村松彦
行橋町江本金次郎
門司市持松茂穂
大切にして下さい
昭和十七年四月
江本氏は10年以上前、伯父の最期を知りたいと、兵士や遺族でつくる会を通じて、写真と名前を公開した。
だが、金次郎氏につながる情報はなかった。
会も活動を休止した。
行橋市では今年12月、大相撲の巡業がある。2
5年ぶりという。江本氏は、地元実行委の会長を務める。
「相撲が強かった伯父が、僕にこの役を引き寄せてくれたのかもしれない。伯父の最期は、結局分からずじまいでした。それほど戦地は厳しかったのでしょう。だからこそ日本のために戦った伯父たちへ、感謝は尽きません」
ガダルカナル島の戦い
ガ島は南太平洋・ソロモン海に浮かび、大きさは四国の3分の1ほど。日本海軍が米国とオーストラリアの連絡を遮断しようと、飛行場を建設していた。昭和17年8月に米軍が上陸し、戦闘が始まった。
日本軍の反撃はことごとく退けられた。
18年2月の撤退までに、陸軍は約3万2千人を投入し、2万1千人を失った。海軍も艦艇56隻が沈没し、飛行機の損失は850機に上った。
(産経ニュース)
この記事に出てくる「最悪の戦場に奇蹟はなかった」は一文を読む度にいろいろ考えさせられるものだった。
「菊」部隊はガダルカナル島撤退後、なんとインパール作戦に投入された。
ガダルカナルも地獄であったが・・・・、インパールも地獄だった。
「最悪の戦場に奇蹟はなかった」は文庫本にもなっていて今も入手可能なので読んで欲しい一冊だ。
私は「餓死した兵隊が一番可哀想だ」と戦争体験者がぽつりと呟いたのを聞いたことがある。
なんとも言えない気持ちになった、その呟きのなんて重いこと・・・・。
歩兵第124聯隊聯隊旗手小尾靖夫少尉の日記からガダルカナルの実態を紹介します。
『どうやらおれたちは人間の肉体の限界まで来たらしい。
生き残った者は全員顔が土色で頭の毛は赤子のウブ毛のように薄くぼやぼやになってきた。
黒髪がウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。(中略)やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。
歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることをはじめて知った。
このころ、アウステン山に不思議な姓名判断が流行りだした。
限界に近づいた肉体の生命の日数を統計の結果から、つぎのようわけたのである。
この非科学的であり非人道的である生命判断はけっして外れなかった。
立つことのできる人間は……寿命は30日間
身体を起して坐れる人間は……………3週間
寝たきり起きれない人間は……………1週間
寝たまま小便をするものは……………3日間
ものを言わなくなったものは…………2日間
またたきしなくなったものは……………明日』
ガダルカナル島の戦いは正しく地獄だった。