インドの「中華民国」軍墓地 中国が観光地化要求で波紋 台湾は「歴史的意義をおとしめる」と反発 | 戦車兵のブログ

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支那では「忠魂帰国」というキャンペーンが行われている。


ミャンマーの「抗日戦線」で戦没した中国遠征軍の一部兵士の遺骸と墓地の土が24箱の骨壷に納められ、騰沖国殤墓苑の中国遠征軍の墓に移されるというものだ。


しかし、ここで戦没したのは「中華民国」の国民党軍で、中国共産党の八路軍ではない。


インドにある中華民国からインドに派遣された将兵が眠る共同墓地について、中国が観光地として開放を求めて台湾が反発している。


以下産経ニュースより転載





【ムンバイ=森浩】第二次世界大戦中、当時の中華民国からインドに派遣された将兵が眠る共同墓地について、中国が観光地として開放するようインド州政府に要求して波紋を広げている。



中国から観光客を呼び込み、愛国心高揚のモニュメントにしたい意向があるもようだ。


この動きに墓地の保存に携わってきた台湾側は「歴史的意義をおとしめる」と反発。


インド側の判断が注目される。





共同墓地は、インド東部ジャルカンド州ランガルにあり、1944年に中華民国軍の将校によって設けられた。



現地で死亡した将兵ら667人が埋葬されている。



第二次世界大戦で中華民国は、ビルマ(現ミャンマー)で英国軍を支援するために「中国遠征軍」を派遣しており、その一部がランガルに駐留したという。



在コルカタ中国総領事館の公式サイトは、42年から45年まで約10万人がランガルで訓練し、「強大な戦闘力を持つ軍隊」となり、日本軍に対し「輝かしい軍功を挙げた」と紹介している。



 観光地化の動きが持ち上がったのは、今月12日だ。同領事館の馬占武総領事ら中国関係者5人が墓地を訪問。



馬総領事は墓石に花を手向け「世界平和と人類の正義のために戦った皆さんを忘れることはできない」と話した。



その後、馬総領事らは地元政府関係者と会談し、墓地を開放して観光客の訪問を可能とするよう求めたという。



 中国側の動きに台湾はすぐに反応した。共同墓地は台湾がインド側の了解を得て、保存に携わってきた経緯があるためだ。



2011年には台湾が改修のための資金を拠出した経緯もある。



 台北駐インド経済文化代表処(大使館に相当)の田中光代表は「埋葬されている兵士はすべて中華民国の国民だ」と反論した。



 田代表は「観光地化は共同墓地の荘厳な歴史的意義をおとしめるものだ」と反発しており、地元政府に対して中国側の要望を認めないよう求めている。



(産経ニュース)





支那目線では、中国遠征軍は「抗日戦争」(日本では支那事変)の最も厳しい段階にあった1942年に、雲南、ミャンマー、インドに出征して日本軍と戦った英雄部隊であり、支那と同盟国が直接軍事協力を行った代表的な事例でもある。



支那国民党軍がミャンマーに出征してから、支那・ミャンマー・インドの大戦は3年3ヶ月続き、この間中国は40万の兵力を投入した。


ここ最近10年余りは北京当局がミャンマーに人員を派遣して国軍兵士の遺骨を探し出す取り組みが進められてきた。


支那共産党は台湾の中華民国の国民党軍兵士の墓地を勝手に掘り起こして改葬しているのだろうか?


この周辺は龍陵で、拉孟・騰越の戦いとして日本戦史では知られている。



拉孟・騰越の戦いは、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。



すでに南部を占領していた日本の部隊は援蒋ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。



硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。




しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。





拉孟守備隊の最期は壮烈なものであった。


1944年3月に雲南遠征軍の一部が拉孟北方の大廉子で怒江を渡河し、反攻してきた。



松井大佐は2個大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破った。



また歩兵第2大隊長は部隊を率いて平戞(へいかつ 拉孟より40キロ南)へ出撃した。



その後もミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃滅など各地を転戦し、6月5日、騰越に全部隊が集結した。


松井大佐は結局、拉孟に復帰することはなかった。



それより3日前にジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が再建した20万の中国軍(雲南遠征軍・指揮衛立煌将軍)の一部4万8千名が拉孟を包囲した。



残りは騰越、龍陵、平戞に向かった。



対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名であった。



拉孟守備隊は野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮した。



負傷した兵を除くと、まともに戦える戦闘員は実質1000名に満たなかった。


一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蒋介石の直系栄与第1師団(日本の近衞師団に相当)を中心とする5個師団。


この軍は、新式装備・兵の質もきわめて優秀な精鋭部隊であった。


敵対比率は50倍以上も開きがあったにもかかわらず、拉孟守備隊は死守を命じられ、100日間も粘り強く戦闘が行われたのである。



9月7日をもって全戦闘は終結した。



1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。


中国軍の捕虜となった傷病者と、本隊への連絡のために軍命によって拉孟を脱出した者が、わずかながら生還している。



一方の中国軍も日本軍の数倍の死傷者を出した。


拉孟の戦いについて9月9日に蒋介石は次のような"逆感状"をもって雲南軍を叱咤激励した。



「わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし」



拉孟が陥落する直前の6日、真鍋大尉は戦闘詳細報告のために木下昌己中尉ら3人の部下を脱出させていた(別にほか一名が脱出)。



彼らは地元民に変装し16日に無事、第33軍本部のある芒市に辿り着き、第49師団の第168連隊(連隊長:吉田四郎大佐)と会い、翌17日に33軍司令部へと向かい、道中、松井大佐と出会った。



歩兵第113連隊連隊長松井大佐はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路を聞き、涙したという。