私は岡本喜八監督の作品が好きだ。
そして数々の映画音楽を作曲した佐藤勝の音楽も好きだ。
この二人が組んだ映画は岡本監督作品の9割もあるけれど、「独立愚連隊西へ」は最高に面白い。
そこで何回かに分けて映画音楽の作曲家として知られる佐藤勝の映画音楽を紹介しようと思う。
佐藤勝は北海道出身でもあり親しみもあるけれど、幼い時から見ていた映画やドラマの曲って佐藤勝の作曲が物凄く多い。
今回は「日本のいちばん長い日」を紹介する。
この映画の音楽は動画の6分45秒辺りからの曲が一番印象的で好きだ。
映画「日本のいちばん長い日」の原作は、『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』で、半藤一利による日本のノンフィクション作品だ。
1965年(昭和40年)の初版刊行時は文藝春秋新社から大宅壮一編のクレジットで発売され、1995年(平成7年)6月に文藝春秋から半藤名義で『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』として再版された。
昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。
2度にわたり日本で映画化され、製作・配給東宝、岡本喜八監督による1967年版、製作・配給松竹、原田眞人監督による2015年版がある。
今回紹介するのは岡本監督版の1967年版「日本のいちばん長い日」である。
映画「日本のいちばん長い日」は、東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化された。
東宝内部では、ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったという。
本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として1972年(昭和47年)の『海軍特別年少兵』まで6本の映画が製作された。
岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという。
公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという。
昭和天皇が家族とともにこの映画を公開年の12月29日に鑑賞していたことが、2014年(平成26年)9月に公表された『昭和天皇実録』で明らかにされた。
畑中 健二少佐には黒澤年男が演じていた。
畑中少佐は、鈴木貫太郎内閣のポツダム宣言受諾決定に抗議する一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が企図したクーデター未遂事件(宮城事件)の首謀人物の一人である。
決起は叶わず、玉音放送直前の8月15日午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で椎崎二郎とピストル自決した軍人である。
終戦時に宮城事件の首謀者の一人となり、森赳近衛師団長を殺害した。
数年前に靖国神社の遊就館に彼の遺書が展示されていたのを見た。
公の遺書として有名なのは「松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。」というものだが、私が見たのは師団長暗殺の責任をとるというものであった。
阿南惟幾陸軍大将(陸軍大臣)は三船敏郎が演じた。
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。大東亜戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に割腹自決した。
日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初である。
1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。
阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。
阿南は梅津美治郎参謀総長とともに戦争の継続と本土決戦を強硬に主張したが、昭和天皇の聖断によって最後には陸相として終戦の詔書に同意した。
終戦の詔書の作成においては陸軍の立場から「戦勢日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」とするなどの字句修正を求めた。
終戦の詔勅に署名したのち阿南は鈴木首相のもとを訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。
鈴木は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去った。
鈴木は「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやいている。
また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と最も激しく対立した東郷茂徳外相に対しても、「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。
軍務局幕僚を中心とする強硬派は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画をねっていた。
これに賛同を求められた阿南は、梅津の賛同を条件としたが、14日朝に梅津から反対の意を伝えられた。
14日正午過ぎに首相官邸閣議室において義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けた。
阿南の同意を得ぬまま8月14日深夜に始まった宮城事件は、15日のうちに失敗に終わった。
阿南は8月14日の三長官会議で既に罷免が決まっておりクーデターを積極的に支援することができなかったとの意見もある。
8月15日早朝、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で切腹。
介錯を拒み早朝に絶命している。
「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もある。
遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていた。
辞世の句は、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」とあり、これは1938年(昭和13年)の第109師団長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで会食した際に、その感激を詠ったものである。
阿南は昭和天皇からは「あなん」と呼ばれていた。
阿南の葬儀に昭和天皇は勅使を派遣していない。
佐藤勝の映画音楽の紹介はまだまだ続きます。
音楽を聴くだけで映画を思い出してしまいます。
見ていない方はこれを機会に是非観て下さい。