アニメ映画「この世界の片隅に」は良い映画だった。
呉旅行でもあっちこっちに「この世界の片隅に」を宣伝していたがそれから1年後に公開されていた。
かなり前から呉では応援していたのだろう。
その「この世界の片隅に」では印象的なシーンに呉空襲が描かられている。
以下産経ニュースより転載
第二次世界大戦末期、広島県呉市の呉軍港は米軍による大空襲に見舞われた。
昨年公開され、ロングランヒット中のアニメ映画「この世界の片隅に」ではこの呉軍港空襲が克明に描かれる。
「戦艦『伊勢』や空母『天城』などが次々と目の前で撃沈していきました…」。
元海軍の山本重光さん(92)は当時、通信兵として空母「鳳翔(ほうしょう)」に乗艦。
停泊中の軍艦がほぼ壊滅する中、鳳翔が奇跡的に空襲を免れた理由を山本さんは「江田島の住民が迷彩シートなどで擬装してくれたおかげです」と語った。
擬装とは軍艦を島のように見せかけ敵機の目を欺くこと。山本さんは一命を取り留めたが、目撃した光景は「空一面が炎と煙で覆われた地獄絵図だった」と振り返る。
92歳にして初めて取材で語る証言はあまりにも衝撃的な内容だった。(戸津井康之)
呉軍港の惨劇
米軍は昭和20(1945)年3月から7月にかけて、執拗(しつよう)に呉市と呉軍港への空襲を繰り返した。
そこには、日本海軍の旗艦、戦艦「大和」を建造したことでも知られる呉海軍工廠があった。
「この世界の片隅に」では、連日昼夜なく米軍機による激しい空襲が続き、そのたびに防空壕(ぼうくうごう)へ逃げ込む呉市民の姿が克明に描かれている。
7月に入ると、米軍の空襲はいっそう苛烈さを増し、同28日、遂に呉軍港は日本海軍の母港としての機能を完全に失う。
「私は7月28日の空襲を今も鮮明に覚えています。それは、まるで地獄絵図のような光景でした…」
山本さんは、画用紙に水彩絵の具で描かれた一枚の絵を広げながら、当時の様子を語り始めた。
世界が恐れた空母「鳳翔」の真意!?
山本さんは大正15年、三重県生まれ。
日本海軍に憧れて、山口県の防府海軍通信学校に入学し、通信兵となるための教育を受けた。
「連日、カッターを漕ぐ実技や、座学では通信のためのモールス信号の授業など厳しい訓練が続きました」と山本さんは振り返る。
「昭和19年秋の卒業が決まると、いよいよ自分たちが乗艦する軍艦が発表されました。私は当初は空母『瑞鶴(ずいかく)』に乗艦する予定だったのですが、急遽(きゅうきょ)、『鳳翔』に乗艦するよう命じられました」
19年10月、レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅的な打撃を受ける。山本さんが乗艦する予定だった「瑞鶴」も、レイテ沖海戦の中のエンガノ岬沖海戦で沈没したのだ。
「鳳翔」は大正11(1922)年に竣工された日本海軍初の空母だった。
「実は海軍では“鬼の日向か、地獄の鳳翔か”と異名をとり、恐れられた軍艦でした。歴史と伝統を誇る日本海軍の中でも最古参といえる鳳翔は、世界の海軍軍人にも鳴り響く厳しい訓練、軍律で知られた軍艦だったのです」と山本さんは苦笑した。
為す術のない撃沈
20年7月28日。その日、通信兵の山本さんは三交代制の当番として鳳翔に乗艦していた。
「それは突然でした。米軍機による空襲が始まったのです。上空を覆い隠すように何百機もの米軍機の機影が広がり、空一面にもうもうと煙と炎が立ちこめていきました。そして海面に無数の水柱が噴き上げていきました」
山本さんの眼前で、呉軍港に停泊していた戦艦「榛名」や「伊勢」、「日向」、そして空母「天城」などが次々と米軍機の爆撃により大破、横倒しになりながら沈んでいったという。
「軍港は海底が浅いため、小さな駆逐艦などは海の中へ沈没していきましたが、巨大な戦艦や空母は横転し傾きながら沈み、艦底の腹を見せた状態で次々と着底していったのです。あまりにも悲惨で無残な光景でした…」
最後の抵抗を知る電信
鳳翔の舷窓から山本さんが目撃した呉軍港の惨劇は地獄絵図のようだったという。
「巨大な空母『天城』が傾き、艦艇の赤い腹を見せながら沈んでいく姿に、悔しくて奥歯をかみしめながらも、こう悟りました。もう誰1人生き残ることはできないだろう…」
そう思った次の瞬間、通信態勢を取っていた山本さんの耳にヘッドホンから、こんな電信が飛び込んできた。
「巡洋艦『大淀』が沈みながら、まだ機関砲を撃ち続けている…」と。
轟音にかき消されながら途切れ途切れに聞こえてくる電信に山本さんは込み上げてくる涙をおさえることができなかったという。
「遂にこの呉で日本海軍は全滅するのだ…」
一命を取り留めた喜びなど微塵(みじん)も感じなかった。山本さんはただ呆然(ぼうぜん)とし、電信任務をこなしていた。無念の涙はとまらなかった。 =つづく
沈みながら最期まで射撃していたなんて海軍魂だね。