イヴァーン・ムィクィートヴィチ・コジェドゥーブ航空元帥 | 戦車兵のブログ

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撃墜王列伝はソ連軍ナンバー1撃墜王イヴァーン・ムィクィートヴィチ・コジェドゥーブ航空元帥です。



イヴァーン・ムィクィートヴィチ・コジェドゥーブ(1920年6月8日 - 1991年8月8日)は、62機の敵機を撃墜したソ連第一のエース・パイロット。



ウクライナ人。



赤色空軍の戦闘機パイロットとして第二次世界大戦に参加し、三度「ソ連邦英雄」の称号を受けた。


戦後はソ連空軍の指揮官として朝鮮戦争に参戦した。



その後、空軍の将官として勤務を続けた。



イヴァーン・コジェドゥーブは、1920年6月8日にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のスームィ州ショーストカ地区に近いオブラジイィウカ村の農家に生まれた。



1943年から共産党の党員となった。ショーストカ航空クラブの化学技術専門学校を終え、1940年に労農赤軍へ入った。


1941年には、ハルキウ州のチュフーイィウ(チュグーエフ)軍事航空飛行士学校を終え、コジェドゥーブはそこで教官として働くようになった。



大祖国戦争の開戦とともに、航空学校は中央アジアへ疎開した。



幾度もの上申の末、コジェドゥーブの前線への参加の希望は叶えられた。



1942年11月、コジェドゥーブ軍曹は第302戦闘航空師団隷下のイワノヴォの第240戦闘航空連隊へ配属された。



1943年3月には、師団の一員としてヴォロネジ戦線へ飛び立った。



コジェドゥーブの最初の出撃は、この年の3月26日であった。



しかし、それは失敗に終わった。


La-5戦闘機



彼のLa-5戦闘機(機体番号75)は戦闘で損傷を受け、帰途さらに友軍高射砲の誤射を受けた。



コジェドゥーブは機を飛行場まで飛行させ着陸させたが、これには大きな苦労が伴った。



1ヶ月の間、新しいLa-5は受領されず彼はこの機で飛行を続けた。



その後、コジェドゥーブはステップ戦線で戦った。



コジェドゥーブは少尉に昇進し、7月6日にはクルスクでJu 87急降下爆撃機を撃墜した。これが、彼の最初の撃墜記録となった。



翌7月7日には2機目を、7月9日にはさらに2機のBf 109戦闘機を撃墜した。



8月には、飛行連隊の司令官に任命された。



1944年2月4日、「ソ連邦英雄」の称号が「レーニン勲章」と第1472号「金の星」メダルとともにコジェドゥーブに授与された。



第240戦闘飛行連隊の連隊司令官であったコジェドゥーブは、146回の出撃をこなし20機の敵機を撃墜していた。



1944年の春まで、コジェドゥーブは改良型のLa-5Fに搭乗していた。



5月には、最新型のLa-5FNを受領した。



彼のLa-5FN(機体番号14)は、ヴォルゴグラード州のコルホーズ員V・V・コーネフが寄贈したものであった。


数日後、コジェドゥーブはこの機でJu 87を撃墜した。続く6日の間に、さらに7機の敵機を撃墜した。



6月末、彼は自分のLa-5FNをキリール・アレクセーエヴィチ・エフスチグネーエフに譲った。





エフスチグネーエフは、最終的に2度「ソ連邦英雄」の称号を得た。



一方、コジェドゥーブは教育連隊へ移動した。



しかし、8月にはもう第1白ロシア戦線の第16航空軍第302戦闘航空師団第176護衛戦闘飛行連隊の副連隊長に任命された。




この時、連隊はLa-5FNを洗練した戦闘機La-7を受領していた。



コジェドゥーブは、La-7(機体番号27)に乗り、終戦まで戦い抜いた。



2つめの「金の星」メダルは、1944年8月19日に授与された。この時点で、コジェドゥーブは256回の出撃と48機の敵機撃墜を記録していた。



あるとき、敵地上空での空中戦時にコジェドゥーブのLa-7は下方からの攻撃による損傷を受けた。


エンジン停止に陥ったとき、コジェドゥーブは捕虜になることを嫌い、自機を地上目標へ突入させることを選び、急降下を開始した。



あわや衝突というとき、突如としてエンジンが再び動き出した。


コジェドゥーブは、機を立て直し、無事自軍の飛行場まで帰還した。


1945年2月12日、コジェドゥーブはV・A・グロマコフスキイ中尉とのペアで前線境界線上空をパトロールしていた。


Fw 190戦闘機13機からなる敵飛行隊を発見した彼らは、それらに襲い掛かり5 機を撃墜した。



それらの内3 機がコジェドゥーブによる撃墜で、残る2 機は僚機によるものであった。



2月15日には、コジェドゥーブはオーデル川上空でドイツ空軍I./KG(J)54所属の下士官K・ランゲジェットの操縦するジェット戦闘機Me 262を撃墜した。




親衛少佐となったコジェドゥーブは、戦争終結までに330回の出撃を行い、120回の空中戦において62機の敵機を撃墜した。


これ以外に、1945年の春に初めてアメリカ空軍のP-51Dに出遭った際に、2機を誤って撃墜している。



最後の撃墜は、ベルリン上空での空中戦時に撃墜した2機のFw 190であった。



戦争全期を通じ、コジェドゥーブは一度たりとも撃墜されたことはなかった。



彼は、まぎれもなくソ連最高の撃墜王であった。




3つ目の「金の星」メダルは、1945年8月18日にコジェドゥーブ親衛少佐の高い戦闘技量、個人としての男らしさと勇気に対して授与された。



戦後も、コジェドゥーブは空軍での勤務を続けた。彼は、ジェット機の操縦技術を習得した。


1949年には、赤旗空軍アカデミーを、1956年には参謀本部軍事アカデミーを終えた。



朝鮮戦争では、第64戦闘航空軍団隷下の第324戦闘飛行師団を指揮した。



しかし、彼自身は戦闘へ出撃することはなかった。



部隊はLa-9戦闘機なども装備したが、主力は最新鋭の後退翼ジェット戦闘機MiG-15であった。



パイロットもエリートばかりが集められ、彼らは1年の間に合わせて239機の国連軍機を撃墜した。中でも、エヴゲーニイ・ゲオールギエヴィチ・ペペリャーエフは両軍合わせて第2位となる18機(または19機)の撃墜を記録した。



1964年から1971年までの間、コジェドゥーブはモスクワ軍管区空軍第一副司令官としての任を務めた。



1971年からは、空軍の中央機関に勤務し、1978年からはソ連国防省監察将官となった。



1985年、コジェドゥーブは空軍で事実上の最高位である「航空元帥」の位を授かった。



コジェドゥーブは、陸軍・空軍・海軍支援全連邦赤旗勲章義勇組合(DOSAAF)中央委員会幹部会の一員となった。



最高会議代議員として2回選出され、ソ連人民代議員として5回招集された。



モルドバのベーリツィ、ウクライナのチュグーイィウ、クピヤーンスィク、スームィ、ロシアのカルーガなどで名誉市民の栄誉を受けた。



また、コジェドゥーブは『祖国へ奉仕を』(«Служу Родине»)と『祖国への忠誠』(«Верность Отчизне»)の二著を物した。



コジェドゥーブは、生涯に2度のレーニン勲章、7つの赤旗勲章、アレクサンドル・ネフスキイ勲章、一等祖国戦争勲章、2つの赤星勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する勲章」、メダル、外国の勲章やメダルを受けた。



イヴァーン・コジェドゥーブは、1991年8月8日にモスクワで亡くなり、ノヴォデーヴィチ墓地に埋葬された。



故郷のオブラジイィウカにも彼のブロンズ像が立てられた。


彼の乗機であったLa-7(機体番号27)は、モニノ空軍博物館に展示されている。