撃墜王列伝1「レッド・バロン」 マンフレート・フォン・リヒトホーフェン 騎兵大尉 1 | 戦車兵のブログ

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撃墜王列伝1回目は、第一次世界大戦のナンバー1撃墜王「レッドバロン」ことリヒトホーフェン大尉です。



マンフレート・アルブレヒト・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェンManfred Albrecht Freiherr von Richthofen、1892年5月2日 - 1918年4月21日)は、ドイツの陸軍軍人、パイロット。



第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)を保持するエース・パイロットとして知られる。



乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッド・バロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれた。



リヒトホーフェンは、第一次世界大戦における空中戦で前人未踏のスコアである80機撃墜(未公認2を除く)を達成した。



 その紳士的な態度は天駆ける騎士と賞賛される。プロイセン王国(ドイツ)では Der rote Kampfflieger (赤い戦闘機乗り)、敵国のフランスでは Le petit rouge (小さな赤)、Diable Rouge (赤い悪魔)と、イギリスでは Red Knight (赤い騎士)、あるいは Red Baron (赤い男爵)と呼ばれた。 



数々の異名に「赤い」と付くのは、彼がエースとして両軍で名声を得た後、乗機全体を明るい赤で塗装したことによる。


彼が全体赤色の機体を使用した期間は戦争後期の敗色濃い後半以降で、全ての乗機が赤色だったわけではない。



彼は、騎士道精神にあふれ、共同撃墜の場合は戦友に功名を譲るなど戦友愛をもち、ストイックで責任感が強く統率力にとんでいた。



 背丈はそれほど高くないとされる(もっとも身長は180cmと当時としては平均以上であった)が屈強な体格をもち、金髪を短く刈り上げたハンサムな彼は、ドイツ帝国きっての女性のあこがれの青年であった。



 ゆっくりとした口調で語り、プライドが高く孤高を保った(しかし、戦友はそれをはにかみやの性格を隠す為のものであると考えていた)。 



攻撃に熱中すると周囲の状況が全く見えなくなってしまうという大きな欠点があり、そのため幾度となく窮地に陥り、最後には致命的な結果を招いた。



シュレジエン地方のブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)にアルブレヒト・リヒトホーフェン男爵とその妻、クニグンデの長男として、1892年5月2日に生まれた。



 9歳の時で家族は近くのシュヴァイトニッツに移りすみ、狩猟や乗馬を楽しむ少年時代を送った。 



彼は頑健だったが背は兄弟ほどは伸びなかった。 



幼いころから甘やかされた事がなく、9歳まで家庭教師に教育され、11歳で士官候補生となり以降軍服に包まれた人生を歩む。



スリルを好み12歳の時にバハルシュタットの尖塔の頂上へ上ったりした。 リヒテルフェルデの上級学校を経て、1911年の4月に士官学校を卒業して陸軍軍籍を得た。



槍騎兵の第一槍騎兵連隊(俗称、ロシア皇帝アレクサンドル3世皇帝連隊)に配属された。



第一次世界大戦勃発直後、リヒトホーフェンは東部戦線では馬を駆り、敵情偵察に活躍した。



騎兵として開戦早々に臨んだ初陣では、ロシア国境を越えカリッシュのキールツェ村を占領したが、味方の兵力が分散された時に敵の部隊に包囲された。



彼は隠密行動により敵中を辛くも離脱したが、隊では戦死の報告がなされ家族は弔問の客を迎えていた。



その後、短期間で部隊がベルギーへ転進し東部戦線での活動はごく短く終わった。



 このアールロンへの移動中、初めて戦争に飛行機が使用される所を見てリヒトホーフェンはこれに非常に興味をもった。



「私は飛行士が何をしているか知らなかった」しかし「飛行士の姿を見るたびに興奮した」と後に語っている。 



アールロンではピルトンの森でドイツ第5軍とフランス第3軍の会戦の機が熟していた。



彼の15騎の槍騎兵隊は偵察任務をになった。



小径を進んでいるとフランス兵の計略に遭い銃撃を受けた。



後退しようとするリヒトホーフェンの隊は、撤退の合図を援護の合図と勘違いした部下達の前進とで、小道の上で混乱し、さらに銃撃を受けた部下の馬が敵側に暴走してそれに乗っていた2名を失う最初の敗北を喫した。



彼のプライドはこの敗北に深く傷ついた。



やがて膠着状態に陥った西部戦線では機関銃と鉄条網の陣地戦となり、騎兵の活躍の場は極めて少なくなったばかりか、彼が戦前に想像した「旗をはためかして最前線で突撃する」という構図はすでに実戦では自殺行為となっていた。



伝令兵となり活躍の場を期待したが、前線から1.5キロメートル以内の立ち入りを禁止され、前線兵士からも「無駄飯食い」とみなされる後方勤務でしかなかった。



師団が攻撃に加わるのでいよいよ活動できると期待したが、今度は補助的な任務を与えられた。


そのため、ついに彼は槍騎兵部隊から転属願いを師団長に出し、その結果1915年5月に飛行訓練所への入所が認められた。



リヒトホーフェンが志望した当時の飛行隊にはまだ戦闘機はなく、単機同士の銃撃戦や飛行機が編隊飛行を行うことさえなかった。



飛行機は写真偵察や味方砲撃での着弾観測が主任務で、パイロット同様に優れた偵察員が必要とされた。



彼の志望の動機も「少なくとも前線で何が起きているかを見ることができるから」であった。



彼は、ケルンの第七飛行訓練所で4週間の座学と15時間の機上訓練を受けることとなり、訓練所では最初に機上試験で飛行機に乗れるかが試された。



リヒトホーフェンの偵察員の訓練教官は、アルバトロスBII偵察機の名操縦士ツォイマー中尉であった。



1915年5月にリヒトホーフェンは最初の任地としてロシア戦線へ偵察将校として派遣された。



操縦士のホルク伯爵が中隊に参加すると、彼とペアを組んで偵察任務に8月初めまでついた。



その8月初旬、ホルク機でブレスト=リトフスクに向け偵察飛行中炎上するビクツニスの街の上でエンジンが故障し、低空飛行で帰る途中ロシア軍に撃墜された。


辛くもドイツ側占領地に不時着して、2人はプロイセン近衛連隊の兵士に救助された。


その後すぐにリヒトホーフェンはオステンデで編成されたドイツ軍初の長距離爆撃隊のツォイマー機の爆撃手となった。


しかし爆撃任務のなか、戦果の確認中に不注意からプロペラで手を叩かれて戦争で最初の負傷をした。



彼は治療中の1週間、飛行任務から解かれた。



この頃になると、両軍搭乗員は当初拳銃やライフルで空中で撃ち合いを始めた。



そして、軽機銃で武装する機も登場して偵察や爆撃任務の傍ら空中で銃撃戦が生じるようになった。


リヒトホーフェンも9月にシャンパーニュでファルマン機と遭遇し初めての空中での銃撃戦を経験した。


敵機撃墜を熱望したリヒトホーフェンは、オステロートとペアをアルバトロスCIII機で組んだとき、並行して飛行したフランス軍のファルマン機を、軽機銃を100発射った後に初めて撃墜したが、敵前線背後5キロに墜落したため非公認。



オスヴァルト・ベルケ



その当時、偶然会った4機撃墜のエース・パイロットオスヴァルト・ベルケに、彼は空戦の極意を尋ねた。



答えは簡単なもので「近くに寄って撃て」だった。リヒトホーフェンも「自分もそうしているが落せない」とさらに尋ねると、「君は大きな爆撃機だが、自分はフォッカー単葉機に乗っているからだ」との答えが返ってきた。


フォッカー単葉機



リヒトホーフェンは、後方に下がらず「前線で」任務についたまま戦闘機パイロットになる決意を固め、デベリッツの基地内で爆撃機パイロットのツォイマーから25回の飛行訓練を受けた。



しかし、彼の単独飛行では同乗の教官パイロットの体重分のバラスト(ツォイマーの体重分の重し)が飛行機につまれていなかったため、着陸時に練習時と違う機体バランスから飛行体勢を崩して初めての墜落を経験した。



しかし、彼はその二日後「飛ぶコツを突然に覚えた」という。



1915年12月25日デベリッケでの訓練飛行を終えて、1916年3月、ヴェルダン前面の第二戦闘飛行中隊に参加した。



ベルケは自らの率いる第2戦闘機中隊  にリヒトホーフェンを配属した。



リヒトホーフェンは複座のアルバトロスcIII機の上翼に機銃を前方と上方に射撃できるように装着した。



同僚が機銃の効果を疑う中、4月25日フルリー・ドゥモーンでフランスのニューポール単座機を撃墜した。



これがリヒトホーフェンがパイロットとなって撃墜した第一号、2機目の撃墜であった。



しかし、敵前線後方に墜落したためこれも非公認となった。 その後、ライマン少尉と1機のフォッカーE型単葉機を午前と午後で共同使用することになる。



ライマンが撃墜(生存帰還)され、これによりリヒトホーフェンは漸く単独使用が出来るようになった。



しかし、このフォッカーE型単葉機を彼は三度目の出撃時にエンジン故障で墜落させ、2度目の墜落を経験する。

 


「レッド・バロン」 マンフレート・フォン・リヒトホーフェン 騎兵大尉2へつづく