“海自の歌姫”国歌斉唱…世界一の潜水艦救難技術、新型艦「ちよだ」の秘密 | 戦車兵のブログ

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以前はよく北海道にも「海上ページェント」というイベントがあって海上自衛隊の艦艇を見学できた。

その時に潜水艦救難艦「ちよだ」を見たことがあった。

特殊な艦艇であった。

なかなか見学する機会はないが・・・。

以下産経ニュースより転載



 深海で隠密行動を遂行している潜水艦が、故障や敵からの攻撃で、航行不能に陥ったら…。



 万一、潜水艦が沈没してしまった場合、艦内に残された乗員を救助することが急務となる。



その役割を果たすのが、海上自衛隊の潜水艦救難母艦「ちよだ」と潜水艦救難艦「ちはや」の2隻だ。



 昨年11月、三井造船玉野事業所(岡山県玉野市)で、海上自衛隊の新型潜水艦救難艦「ちよだ」の命名・進水式が行われた。


式典には関係者をはじめ、一般希望者ら約1500人が参加した。




 式では海上自衛隊東京音楽隊の三宅由佳莉3等海曹による「君が代」独唱の後、宮沢博行・防衛政務官が艦名の「ちよだ」を読み上げ、支綱を切断。軍艦マーチが演奏される中、くす玉が割られ、船体が船台からゆっくりと滑りだし無事に進水。祝砲が鳴り響いた。


 「ちよだ」という艦名はこの艦で5代目となり、海上自衛隊としては2代目となる。



 軍艦名としては江戸時代まで遡り、初代は「千代田」型と呼ばれた蒸気船。



その後、旧海軍の航空母艦などを経て、昭和60(1985)年、自衛隊として初代となる潜水救難母艦「ちよだ」が就航した。



初代は全長113メートル、幅17・6メートル、基準排水量3650トンで、乗員は120人。



 今回の5代目は、先代より大型化し、全長128メートル、最大幅20メートル、基準排水量は5600トン。ディーゼルエンジンを2基搭載し最大速力は20ノットを誇る。



 潜水艦救助のためのDSRV(深海潜水艇)や自立型の無人潜水装置ROVといった装備などの艤装(ぎそう)を行い平成30(2018)年3月頃、先代「ちよだ」と交代する予定だ。





 外見上の特徴としてはマストがこれまでの格子状のものから、より平面的なステルスを考慮したと思われる形に変わった。



 また、搭載する深海救難艇を大型化することで一度に16人を救出できる。



手術用のベッドを2床、病床を10床設置する。





 世界一といわれる海自の潜水艦救難技術。これまで「ちよだ」、「ちはや」ともに、実任務への出動はない。



しかし、いつ起こるとも知れない潜水艦の沈没という最悪の事態に備え、救難・救助技術を日々、磨き続けている。   (写真報道局 彦野公太朗)



(産経ニュース)




潜水艦は事故などの不測事態が発生した際に、潜航状態から浮上できずに海底に沈座してしまう事例が多々発生する。



そのような場合に一刻も早く内部に閉じ込められた乗員を救出することを主たる任務とし、そのために必要な装備を施された艦が潜水艦救難艦である。



初期の潜水艦は排水量も小さく、潜航深度も浅かったため、艦体ごと海面上に引っ張り上げて乗員を救出する方式が多用された。



吊り上げ方式は大きく以下に二別される。

  • 釣瓶方式
艦の左右どちらかに廃艦となった旧式潜水艦などをバラストとして用意し、これを沈めることで反対側にくくられた潜水艦を吊り上げる方式。


  • 直接動力方式
バラストを使わず、艦の動力のみで潜水艦を吊り上げる方式。

乗員のみまず救出する方式



第二次世界大戦後は潜水艦も大型化し、潜航深度も深くなったため、艦体を急速浮上させるのは困難となった。



このため、深海救難艇などを沈座した潜水艦まで送り込み、まず乗員を救出する方法が主流となっている。


代表的な救難事例としては、佐久間大尉で有名な第六潜水艇の遭難がある。

第六潜水艇(旧日本海軍)

明治43年(1910年)、訓練のために出港した同艇が沈没。

救難作業の結果、艇体の浮上には成功したが、乗員は全員死亡。


スコーラス(アメリカ海軍・サーゴ級潜水艦)


1939年5月23日、ニューハンプシャー沖合いで公試中に浸水し、水深75メートルの海底に沈没。

潜水艦救難艦ファルコンのレスキューチェンバーにより乗組員59名のうち33名の救出に成功。


クルスク(ロシア海軍・オスカー型)


2000年、演習中に爆発事故により沈没。

ロシア海軍が保有していた各種潜水艦救難艦ではハッチを開けられず、救援要請を受けたノルウェーの民間潜水員が飽和潜水により障害物を撤去したが、乗員は全員死亡していた。


第六潜水艇の遭難は潜水艦事故として日本は美談とされてしまった。


1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は安全上の配慮から禁止されていたガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。


この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様であった。



午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。



佐久間大尉は母船「歴山丸」との申し合わせを無視しがちで、第六潜水艇は日ごろから申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。



異常に気がついた後、歴山丸は呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。



佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。



残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。



歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった。



歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。



また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。



佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝された。



アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版が設置され、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかった。



佐久間勉の遺書


小官の不注意により
陛下の艇を沈め
部下を殺す、
誠に申し訳なし、

されど艇員一同、
死に至るまで
皆よくその職を守り
沈着に事をしょせり

我れ等は国家のため
職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は
天下の士は
これの誤りもって
将来潜水艇の発展に
打撃をあたうるに至らざるやを
憂うるにあり、

願わくば諸君益々勉励もって
この誤解なく
将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を
さすれば
我ら等一つも
遺憾とするところなし、

沈没の原因
ガソリン潜航の際
過度探入せしため
スルイスバルブを
締めんとせしも
途中チエン切れ
よって手にて之を閉めたるも後れ
後部に満水せり
約二十五度の傾斜にて沈降せり


沈据後の状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤つかりたるため電灯消え
電纜燃え悪ガスを発生
呼吸に困難を感ぜり、

十四日午前十時頃沈没す、
この悪ガスの下に
手動ポンプにて排水につとむ、

一、沈下と共にメインタンクを
排水せり
灯り消えゲージ見えざるども
メインタンクは
排水し終われるものと認む

電流は全く使用するにあたわず、
電液は溢れるも少々、
海水は入らず
クロリンガス発生せず、
残気は五百ポンド位なり、
ただただ頼む所は
手動ポンプあるのみ、

ツリムは安全のため
ヨビ浮量六百
モーターの時は二百位とせり、

右十一時四十五分
司令塔の灯りにて記す

溢入の水に浸され
乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず、
余は常に潜水艇員は
沈着細心の注意を要すると共に
大胆に行動せざれば
その発展を望むべからず、
細心の余り
萎縮せざらん事を戒めたり、
世の人はこの失敗を以て
あるいは嘲笑するものあらん、
されど我は前言の誤りなきを確信す、

一、司令塔の深度は五十二を示し、
排水に努めども
十二時までは底止して動かず、
この辺深度は十尋位なれば
正しきものならん、

一、潜水艇員士卒は
抜群中の抜群者より採用するを要す、
かかるときに困る故、
幸い本艇員は皆良くその職を
尽くせり、満足に思う、

我は常に家を出ずれば死を期す、
されば遺言状は既に
「カラサキ」引き出しの中にあり

(これ但し私事に関する事を言う必要なし、田口浅見兄よ之を愚父に致されよ)

公遺言
謹んで陛下に申す、
我が部下の遺族をして
窮するもの無からしめ給わらん事を、
我が念頭に懸かるものこれあるのみ、

右の諸君によろしく(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中将
一、藤井中佐 一、名和少尉
一、山下少将 一、成田少将

(気圧高まり
鼓膜を破らるる如き
感あり)
 
一、小栗大佐 
一、井出大佐
一、松村中佐(純一)
一、松村大佐(竜)
一、松村少佐(菊)(小生の兄なり)
一、船越大佐、
一、成田鋼太郎先生
一、生田小金次先生

十二時三十分
呼吸非常に苦しい
ガソリンをブローアウト
せししつもりなれども、

ガソソリンにようた

一、中野大佐、

十二時四十分なり、
・・・・』




佐久間大尉の精神は絶賛されたが、事故そのものは艇長の禁令無視が原因であり褒められたものでは決してない。

しかし、この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していたが立派な最期であった。



このような潜水艦事故を二度と起こさないよう潜水艦救難技術の向上と潜水艦救難艦の役割は大きい。

戦争で撃沈された多くの潜水艦は今も尚深海の底に眠っている。