アメリカ本土砲撃作戦 | 戦車兵のブログ

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1942年2月24日、日本海軍の伊号第一七潜水艦がカリフォルニア州エルウッドの製油所を砲撃した日。




1941年12月に日本陸海軍によって行われたマレー作戦と、それに続く日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃以降、日本軍はアジアおよび太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍、オランダ軍やオーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていた。





この様な状況下で日本海軍は、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦による通商破壊戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船、潜水艦などを10隻以上撃沈し、中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈する他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦以来日本海軍の多数の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で頻繁に行われていた。




さらに日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として1942年2月23日午後7時(現地時間)に「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)によりカリフォルニア州サンタバーバラ郡のエルウッド石油製油所(リッチフィールド油田施設)への砲撃作戦を行った。




砲撃による被害は少なかったものの、これはアメリカにとっては1812年戦争以降初めて本土に受けた攻撃であり、以後日本軍に対する大きな警戒を呼び起こすことになった。






「伊17」は14センチ砲を20発発射し同製油所の設備に被害を出した上に、アメリカ陸軍兵1人に重傷を負わせたものの、その多くが不発弾であったため最終的には大きな被害を出す事なく終わった。




しかしこの砲撃作戦は、アメリカ本土への日本軍の攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府と軍、国民に大きな動揺を与え、当日はカリフォルニア州沿岸のモントレーからロサンゼルス、サンディエゴに至るまでの広い地域で灯火管制とラジオ放送の中止が行われた。





さらに翌日には、この砲撃作戦の成功により過敏になったアメリカ陸海軍による、カリフォルニア州南部沿岸地域に対する日本軍機の大規模な空襲を誤認した対空砲火と、それにより民間人多数に死傷者を出した「ロサンゼルスの戦い」が引き起こされることになるなど、アメリカ国民をパニックに陥らせる結果となる。






2月24日に日本海軍艦艇によりサンタバーバラ近郊にある石油精製施設に対する砲撃が行われ、これに対してアメリカ軍が何も反撃をできなかっただけでなく、石油精製施設に被害を受けたことは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に衝撃を持って受け止められ、陸海軍ともに日本海軍艦艇によるアメリカ本土に対する再度の攻撃に対して警戒態勢を敷いていた。





しかしその後、日本海軍艦艇の接近は確認されず、日本海軍艦艇や航空機によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、24日の午後10時22分には、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなった。



しかし警戒解除のわずか3時間後の25日の午前1時44分に、ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知した。




この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入った。




その後飛来数は「25機」と報告され、さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始した。



ロサンゼルス市の沿岸部から内陸寄りのカルバーシティの間の上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、飛行物体には命中しなかった。


さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗してしまう。



その後も飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、その後目視からもレーダーからも消えてしまった。



ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、夜中にも拘らず即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継された。



さらに、多くの市民によって「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、交差したり追いかけっこをしたりしていた」などの詳細な目撃談も報告されたほか、サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影された。



また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあった。






伊号第十七潜水艦は、1942年(昭和17年)2月24日、アメリカ合衆国カリフォルニア州のエルウッド精油所を艦載の14cm砲で砲撃しこれに被害を与え、帰途にタンカー1隻と輸送船1隻を撃沈した。



1942年5月からアリューシャン作戦に参加。



アッツ島の偵察を実施。




6月12にカタリナ飛行艇の爆撃を受け、6月27日ダッチハーバーで駆逐艦(艦名不詳)に衝突された。




その後も通商破壊や偵察、ガダルカナル島への輸送任務などについたが、1943年(昭和18年)8月10日以降消息不明に。




8月19日に水上機の攻撃によりヌーメア湾にて戦没した。