そう言われて見れば、昔の人の肖像写真って笑顔は少ないね。
山縣有朋のイメージ改革で撮ったのかな?
以下産経ニュースより転載
伊藤博文とともに明治政府の中枢をなし、第3代、9代の首相を務めた山縣有朋の笑顔の写真が見つかった。
山縣は明治政府で軍制と官僚制度を築き上げた人物。
軍服姿の肖像写真などは数多く残されているが、好々爺ぶりを示す笑顔の山縣像は極めて珍しい。
所蔵していたのは「山縣有朋記念館」の東京事務所(東京都千代田区)。
写真は雑誌「ニコニコ」の大正6年6月号に掲載された写真のオリジナルプリントでタテ15センチ、ヨコ10センチ。
山縣が79歳の時のスナップとみられる。
笑顔でカメラを見つめる山縣有朋(左)。右は貞子夫人。晩年を過ごした神奈川県小田原市の「古稀庵」で撮られたもので、台紙の左下に「ニコニコ倶楽部写真部」のロゴがある(山縣有朋記念館所蔵)
雑誌「ニコニコ」はタイトル通り、各界の著名人の笑顔を掲載して人気があった。
大正3年の第36号では早大博士の高田早苗が「松方正義、井上馨、山縣有朋は笑わない代表格だ」とし、「山縣公は実に尊敬すべき人格であるが、世間の評判が悪いのはニコニコの修養が足りない」と書いている。
この記事の後、山縣が写真取材に応じた可能性がある。
(産経ニュース)
栃木県矢板市にある山縣有朋記念館。有朋が晩年過ごした小田原の「古稀庵」を1924年に移築したもので、栃木県の有形文化財
山縣有朋は、元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。
長州藩領内の蔵元仲間三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。
幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。
明治維新後は有朋の諱を称した。
高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。
明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。
官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。
山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。
晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。
ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。
伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。