1912年9月13日、明治天皇の大葬が行われた。
同日乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死した日。
1908年(明治41年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。
当時、裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。
裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。
また、後に中曽根康弘が運輸大臣であった時に昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話は本当かと尋ねたところ、おおむねその通りであると答えられたという。
逸話とは、乃木が11歳の裕仁親王に、延々と山鹿素行の『中朝事実』を音読して講義したが、親王の弟たち10歳の秩父宮と7歳の高松宮は何を言っているのかわからず、廊下に飛び出した。
1912年(明治45年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は、乃木を「院長閣下」と呼んだ。
これは、明治天皇の遺言によるものである。
昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ。
乃木は、1912年(大正元年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。
当時11歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという。
1912年(大正元年)9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。
当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。
1.乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
2.将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世などを作成し、心静かに自刃を断行した。
3.夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。
4.乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた。
乃木は、以下の辞世を残した。
神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
また、妻の静子は、
出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき
という辞世を詠んだ。
なお、乃木の遺書は、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載などがあり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提としていた。
乃木自刃に対する反応
乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。
乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた。
乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。
特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された。
一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとった。
これに対し夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした。
乃木夫妻の葬儀は、1912年(大正元年)9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。
その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。
日露戦争の時に第3軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死の報を聞いて、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた。
殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であった。
新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、武士道の賛美者でも社会思潮において乃木の賛同者でもないことを明言していた評論家の内田魯庵も、乃木の自刃に直感的な感動を覚えたと述べている。
このような乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった。
東京朝日新聞、信濃毎日新聞(主筆は桐生悠々)などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。
さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた。
また、白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。
特に武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為であり、これを賛美することは「不健全な理性」がなければ不可能であると述べた。
社会主義者も乃木の自刃を批判した。
例えば、荒畑寒村は、乃木を「偏狭な、頑迷な、旧思想で頭の固まった一介の老武弁に過ぎない」と評した上で、乃木の行為を賛美する主張は「癲狂院の患者の囈語」(精神病患者のたわごと)に過ぎないと批判した。
乃木の殉死を否定的に論じた新聞は、不買運動や脅迫に晒された。
例えば、時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した。
京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、京都帝国大学教授を辞職せざるを得なくなった。
谷本は、乃木の「古武士的質素、純直な性格はいかにも立派」と殉死それ自体は評価していたが、乃木について、「衒気」であるから「余り虫が好かない人」であり、陸軍大将たる器ではない旨述べたことから、否定論者と見なされたのである。
乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。
例えば、櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などである。
この中で大正時代に刊行された芥川の『将軍』は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった。
乃木の死去を受け、読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社建立、乃木邸の保存、「新坂」の「乃木坂」への改称などを希望するとの意見が示された。
その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された。