ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニア 米海軍元帥 その2 | 戦車兵のブログ

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南太平洋方面軍司令官





退院したとき戦争は南太平洋方面ガダルカナル島を巡る戦いで消耗、特に第一次ソロモン海戦と第二次ソロモン海戦で局地的には日本海軍が健闘し、南太平洋方面軍司令官ロバート・ゴームレー中将は疲労と消極的指揮が目立つようになっていた。





業を煮やしたニミッツは参謀長スプルーアンス少将に各基地の視察を命じ、その時ハルゼーは同行を申し出て許可された。





1942年10月18日にヌーメアに到着すると緊急電で南太平洋方面軍司令官(COMSOPAC)就任を伝えられる。







「これまでわたしにあたえられたうちでもっとも厄介な任務だ」と、ぼやきはしたが、司令部をゴームレー司令部のあった旧式修理艦「アーゴーン」からヌーメアの陸上基地に移した。




就任後間もない10月26日に発生した南太平洋海戦では空母「「ホーネット」(CV-8)を失い可動空母が一時ゼロになる危機に見舞われるが、日本軍の「大和」「武蔵」に匹敵する秘蔵の新鋭戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」を惜しげもなく投入すると、旧式艦「比叡」「霧島」を申し訳程度に繰り出す日本軍を第三次ソロモン海戦で押し返した。





1942年11月18日に大将に昇進している。




11月30日のルンガ沖夜戦で巡洋艦に被害が出たが1943年2月1日に日本軍はガダルカナルから全面撤退、日米の攻守の完全逆転に成功した。



第3艦隊司令官






ガダルカナル島奪取を為しえたアメリカ軍の次の目標はラバウル島の攻略であったがニューギニア以東の南西太平洋はダグラス・マッカーサー将軍の担当で、2月に重爆撃機の借用をマッカーサーに申し入れたがにべもなく断られニミッツに「私は奴(マッカーサー)と、またそのほかの自己宣伝をするくそったれと論争するのは真っ平です」と怒りをぶちまけている。




しかし、4月15日にブリズベンで直接会談するとすっかり好印象をもち、のちに「われわれはあたかも永年の親友同志のように感じていた」「当時63歳であった彼は50代のような精悍さであった」と書き残している。



またマッカーサーも「会った瞬間からわたしは彼を好きになった」「率直で、忌憚のない意見を述べる精力的な人物」と述べている。




こうして相互信頼を得ると、5月15日に第3艦隊と改称された部隊を率いてニュージョージア島を皮切りに南西太平洋を攻撃した。




7月にはフランク・ノックス海軍長官らの命令で参謀長マイルズ・E・ブラウニング大佐は解任され、ロバート・B・カーニー大佐が少将に昇進の上赴任している。




この間親友スプルーアンスが第5艦隊を率いて中部太平洋のマーシャル諸島・ギルバート諸島の攻略に着手。




次の目標にマリアナ諸島攻略を目指す海軍にマッカーサーは統合参謀本部に猛反対を示し、一方でハルゼーに「わたしについてきてくれるなら英米連合の大艦隊の指揮権を与えようと思う。
わたしはあのネルソン提督がなりたいと夢見ていた人物以上にきみをしてあげられるんだがね」といって抱き込みを図った。




しかし、キング・ニミッツ両提督はハルゼーの南太平洋方面軍司令官の地位を交代させ、第3艦隊司令官として中部太平洋攻略をスプルーアンスと交代で着手する構想を持っておりマッカーサーの意図を阻止した。





1944年6月にヌーメアを去る。




この時イギリスより大英帝国名誉騎士司令官勲章を授与される。








レイテ沖海戦~終戦





真珠湾に戻ったときスプルーアンスはマリアナ沖海戦で勝利しマリアナ諸島を陥落させたが、海戦における空母部隊の使用が不適切としてジョン・H・タワーズ中将をボスとする航空閥がスプルーアンス更迭を含む猛烈な抗議を繰り広げていたが、これといったコメントを残していない。





第3艦隊旗艦として空母部隊に随伴可能な速力を持ち、航続距離に優れる艦載機を持つ敵機動部隊に間合いを詰めた際に敵の攻撃から司令部機能を喪失しない防御力を持つ艦艇として新鋭アイオワ級戦艦を要求、これが通りハルゼーの生誕地の名を冠する2番艦「ニュージャージー」(BB-62)が与えられた。





駆逐艦3隻を伴い1944年8月24日に真珠湾を出港、26日にサイパン島で艦隊指揮権を引き継ぐと28日に硫黄島、9月9日からはパラオ諸島を次々に爆撃、守備が手薄な事を看破すると攻撃を早々に切り上げ9月下旬にフィリピン沖に到着、10月12日台湾沖航空戦で台湾の航空戦力に壊滅的ダメージを与えると、10月17日にはレイテ沖海戦の指揮を取る。





ここでハルゼーは小沢治三郎中将の陽動に引っかかり、のちに「Bull's Run(ブルズ・ラン:猛牛の突進)」と揶揄される反転を行う。






栗田健男中将の「謎の反転」により大勝利を得ると、引き続きフィリピンへの爆撃を続行するが日本軍の神風特攻により空母三隻大破、航空機約90機、戦死者328人の他大損害が発生、12月にジョン・S・マケイン中将の幕僚ジョン・サッチ大佐が考案した「ビッグブルーブランケット」(大規模戦闘機網)で対応した。





12月18日にコブラ台風と呼ばれる台風に突入してしまい、駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人と、レイテ沖海戦以上の被害が生じた。




1945年1月25日にフィリピンからウルシー環礁に戻り後休暇の為本土に帰還、3月にはホワイトハウスに招待されルーズベルト大統領からゴールド・スター勲章を受ける。




ルーズベルトの好意で勲章を胸に留める役はハルゼーの妻であるファン・ハルゼーが行った。



ルーズベルトはこの1ヵ月後に死去している。




4月にパールハーバーに戻るとスプルーアンスが戦艦「大和」を撃沈したというニュースを聞くが沖縄を巡る戦いは停滞していた。末にはグアム島にニミッツを尋ねると30日後に作戦途中でスプルーアンスと交代せよとの命令を受ける。




5月18日にオーバーホール中の「ニュージャージー」に替わり姉妹艦「ミズーリ」(BB-63)に将旗を掲げると5月27日に指揮権を交代。この時海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、この損害が神風特攻によるものと知った。




司令部もマーク・ミッチャー中将などは体重が45kgのガリガリになるまで消耗しており、上陸部隊司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将をせっつくと同時に日本本土各地を爆撃した。




6月5日に台風にまたもや遭遇、艦船36隻が損傷、航空機142機喪失他損害が発生、皮肉にも13世紀のモンゴル帝国に次いで2人目の「神風」(2発の台風)で大きな被害を受けた外国人となった。




これには査問委員会が設置され、ジェームズ・フォレスタル海軍長官は一時ハルゼーの更迭・退役を考えたがキング提督の、表向きはハルゼー更迭は日本軍を喜ばせるだけ、真意はハルゼー更迭によって軍部内の海軍の勝利は色褪せて対日戦勝の功績が陸軍とマッカーサーに集中してしまう、という意見を受け無罪となった。





7月にはイギリス海軍サー・バーナード・ローリングス中将の空母部隊29隻が援軍で到着したが、この目的がマレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるというかなり漁夫の利を狙う政治的な思惑があった為これを苦々しく思い、イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせた(呉軍港空襲)。





広島・長崎へ原爆が投下された後、サンフランシスコのラジオニュースが日本は降伏したがっているという噂を述べたという情報を入手、エニウェトク島帰港を取り消して日本へ引き返し再度爆撃の準備に取り掛かったが、8月15日にニミッツから最高機密で最優先の電報で「空襲作戦を中止せよ」との命令を受領した。




しかし、日本人を信用しておらず「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」という命令を出している。






戦後~晩年




8月27日に相模湾錨地に到着。夜に東京の捕虜収容所から脱走したイギリス士官2名を保護、彼らから日本軍の捕虜虐待を聞き、国際赤十字社代表のスイス人医師からそれのほとんどが事実であることが確認されると、病院船「ベネボレンス」他捕虜収容部隊を派遣した。




8月30日にニミッツと共に横須賀港に上陸、9月2日の「ミズーリ」号での降伏文書調印式では会場責任者として出席した。




このとき、日本側代表・重光葵が署名までもたついていたが、これを見苦しい引き延ばしと思い「サインしろ、この野郎! サインしろ!」とののしった。




また、調印式の最中は「日本全権の顔のど真ん中を泥靴でけとばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」という。




式典終了後、米本土に回航される「ミズーリ」に代わり戦艦「サウスダコタ」(BB-57)に将旗を移すと、9月8日にマッカーサーから日本首都の正式占領式に招待を受け参加、9月17日には親友スプルーアンスが東京に到着、イギリス艦隊からパーティーの招待を受け、旗艦「キングジョージ5世」で深酒をした。





9月20日に最後の艦隊指揮権交代をすませると日本を発ち、10月25日にサンフランシスコに到着した。




帰国すると、歓迎レセプションや祝賀会をサンフランシスコ・ロサンゼルス・インディアナポリス・セントルイス・ボストン及び生誕地ニュージャージー州エリザベスで受けた。




一通りの歓迎を受けた後、日本を去る前に申請した退役願いが正式に受理され、11月22日にカリフォルニア州ロングビーチでハワード・F・キングマン少将に艦隊司令官の座を引き継ぎ退役した。




しかしその1週間後、ハリー・S・トルーマン大統領より4人目の海軍元帥に任命される。




1946年4月にアメリカ上院により元帥を身分上終生現役待遇とする法案が可決、5月13日にニミッツと共に海軍法務総監の前で恒久的な海軍元帥の宣誓を行った。



「サタデー・イブニング・ポスト」紙(en)に自伝を執筆する一方、各界から「客寄せパンダ」のような扱いを受ける。




政界からは1946年夏にトルーマン大統領から南米親善旅行を要請されるとベネズエラ自由勲章、ペルーアジャックーチョ勲章、ブラジル南十字星国家勲章、チリ勲功大十字章の勲章責めを受ける。



経済界からはペンシルベニア州のゴムタイヤ会社の名誉役員とニューヨーク州の電信会社の理事長の座を、学会からはバージニア大学発展資金運営委員長の座を受け取っている。




精力的にかつての乗艦「エンタープライズ」の保存委員会の委員長を務めていたが、1957年12月に軽い脳卒中を患いドクターストップがかかり退任した。





運動むなしく1958年8月にスクラップが決定されたが、アメリカ海軍はこの替わりに建造中の世界初の原子力空母CVN-65に「エンタープライズ」の名を「ビッグE」のニックネームと共に受け継ぐことを決定した。




1958年6月6日には空母「インディペンデンス」(CV-62)の進水式に出席。




この空母はのちに「ミッドウェイ」(CV-41)に次ぐ2代目の横須賀駐留の空母になった。




1959年8月16日にロングアイランドのカントリークラブで心臓発作により死去、76歳だった。




息子ハルゼー3世は質素な葬儀を考えていたが、カーニー提督の進言で国葬となり、アーリントン国立墓地に埋葬された。




リーヒ級ミサイル巡洋艦の8番艦(CG-23)とアーレイバーク級ミサイル駆逐艦の47番艦(DDG-97)は彼にちなんで命名された。



短気で記憶されるべきエピソードも多い提督でもある。




その勇猛果敢さは「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)と敬称され、また火の玉小僧との通称もあり、日本連合艦隊との艦隊決戦を望んでいたとも言われる。




前線にも積極的に出て兵士と言葉を交わし部下からの信頼が厚かった。





「あのじじいのためならいつでも死ねる」と言った兵士の背後に突然現れ、「おい、若いの。俺はそんなに年じゃないぜ」と軽口で応じた。





第3艦隊旗艦座乗時、ゲダンク・バー(艦内のアイスクリーム製造機)を利用する将兵の列に並んでいた(階級に関係無く行列を作る不文律があった)際、上官優先と言って割り込みをしようとした新人少尉二人を一喝して、元の場所に戻らせた。





怠け者と自認する正反対の性格のスプルーアンスとはニミッツ麾下で双璧をなした。




そうした彼の性格を嫌う提督もおり、「小艦隊を指揮する程度の器しかない」という批判も記録されている。




KILL JAPS, KILL JAPS, KILL MORE JAPS. You will help to kill the yellow bastards if you do your job well.(ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、ジャップをもっと殺せ。任務を首尾よく遂行するならば、黄色いやつらを殺すことができる) 第二次世界大戦中にハルゼーの指揮するツラギの基地の入口に掲げられた標語(ジョン・F・ケネディの回想による)。




これは南太平洋方面軍司令官着任時に指揮官と新聞記者を集めて行った演説で、戦いに勝つためには3つのことしかないと前置きしておこなった発言が元になっている。




WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS (第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す) 比島沖海戦において、小沢艦隊の陽動策に翻弄され担当海域を逸脱した彼の艦隊を呼び戻すために打たれた電文。THE WORLD WONDERS(全世界は知らんと欲す)に激怒して悪態を吐いた。




ちなみにこの一節は本来なら無意味なもの(暗号文を打つ際に、意味のある語句だけだと敵に解読されやすいので、あえて無意味な語句をつけ加えて解読困難にする必要がある)だったとされる。




日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ! 敵をもっと殺せ! 猿肉をもっと作れ!」など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下に対しては批判的で「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった。あのような兵器を、必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか?」と述べている。




息子ウィリアム・ハルゼー3世(通称ビル、Bill)も海軍将校の道を目指したが父親同様視力が劣っていたためアナポリスに入学することができず、プリンストン大学に進学した。




後に彼は海軍予備士官となった。