日本海海戦 1905年(明治38年)5月27日 その2「丁字戦法」 | 戦車兵のブログ

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敵前大回頭




舷側を向けた時に最大の攻撃力(=砲門数)となるのは、基本的には乗り手が矢を射掛けていた古代の軍船から現代の軍艦に至るまで変わっていない。




前後に並んだ砲塔で敵を狙うには、艦の横腹を向けるしかないからである(黄海海戦 (日清戦争)時の清国海軍定遠級戦艦のような、前後方向に攻撃力の高い艦は、むしろ軍艦史において例外的存在である)。




日露戦争当時の軍艦は主砲を旋回砲塔に収める他は、多くの副砲をケースメート(砲郭)式という「艦の横方向にしか撃てない」方式で備えていたため、なおさらこの傾向が強い。




そして横方向に砲撃する都合、および陣形を組むのが簡単である事から、この時代の艦隊は単縦陣が主流であった。



単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることが出来るため、圧倒的に有利な形勢となる。



この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとする事と、交戦時間の経過に伴い相対的位置関係がずれてゆくため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた。



東郷司令長官と秋山真之参謀は黄海海戦 (日露戦争)で丁字戦法を実施したが失敗した。



この教訓と試行錯誤の末、「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」という教訓を得た。



その解決策として秋山らが考案したのが連携水雷作戦(敵艦隊に機雷源への突入か砲撃戦かの選択を強いる)である。



しかし決戦当日は荒天となり、その使用は不可能となってしまった。




そこで次善の策として考え出されたのが、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝く事と、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を同航砲撃戦に持ち込む事だった。



定針せず回頭中の艦は、敵にとっては針路を予測するのが困難で、砲撃を受けて被弾する確率は大きくない。




ただし逐次回頭の場合の単縦陣後続艦は、先頭艦の航路をたどるので予測される虞れはある。




同航砲撃戦




14時08分、先頭の「三笠」は約150度の回頭を終え東北東に定針し、バルチック艦隊の航路の斜め前方7,000mを浅い角度(約20度)の丁字形で圧迫を始めた。



ほぼ同時にバルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」に攻撃を集中した。



14時13分、距離6,000m。連合艦隊第1戦隊は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。



連合艦隊第1戦隊に航路を圧迫されることになったバルチック艦隊は、まず第1戦艦隊が右舷逐次回頭し同航(並航)体勢に移行を始めた。




そして隊形が多少不完全だったが、艦隊主力全力を以て単縦陣を整え、「三笠」への攻撃集中および同航砲撃戦を受けて立つ形を作り始めた。




連合艦隊は考えた戦法通りに同航砲撃戦を強要したことになる。




従来では大回頭ののち、日本艦隊は丁字の形を完成させ丁字戦法を行ったと言われてきた。



しかし戸高一成の調査などで



1.海軍側の一次史料である戦闘詳報や公判戦史などに「日本海海戦で丁字戦法を行った」という記述がない



2.同じく制作された日本海海戦の日露両艦隊の航路図には丁字の形をしたものは存在しない事(大回頭後の形は並航戦)




などから後述する日本海軍独自の極秘戦法だった「連携機雷戦」を隠すため、黄海海戦で失敗し、日本海海戦では使わなかった丁字戦法をいわばダミーとして公表し、それが世間に真実として広まってしまったのではないかという意見も出ている。




あったという意見も未だ根強いが、海軍の一次資料に記載がないのと正確な航路図にそのような形が見当たらない事もあり、大回頭の事は書いてあっても、丁字戦法については触れていない書籍も多くなっている 。




連合艦隊第1戦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾(徹甲榴弾)による一斉砲撃を開始した。






連合艦隊第1戦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾(徹甲榴弾)による一斉砲撃を開始した。



「クニャージ・スヴォーロフ」に向けられた「三笠」の4射目は砲弾は司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数を負傷させた。



14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊の両旗艦に多数命中し火災を発生させた。



この頃、連合艦隊第1戦隊は命中率をさらに上げるために約5,000mに距離を詰めた。



これに伴い「三笠」の被弾も急増した。



また連合艦隊第2戦隊(装甲巡洋艦6隻)も回頭を完了し第1戦隊の航路に続く単縦陣に加わった。




バルチック艦隊第2戦艦隊も第1戦艦隊の航路に続く単縦陣を懸命に整えつつ砲撃を行った。




連合艦隊主力とバルチック艦隊主力との単縦陣同士の同航砲撃戦は最高潮となった。




連合艦隊はバルチック艦隊の北(間隔は約5000m)を浅い角度の丁字の形を保ち先行しながら東北東の針路で同航した。




両艦隊はその後何回か浅い角度の右転針を行ったが、連合艦隊は優速により常にほぼこの形を保った。



バルチック艦隊の速度11ノットに対して日本の艦隊は15ノットであった。




浅間



14時27分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れた。


しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持した。


これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の榴弾(徹甲榴弾)の被弾により急速に戦闘力を失っていった。


「三笠」へ向けて集中する砲撃の命中も減り被弾は峠を越えた。







14時35分、連合艦隊第1戦隊は東北東の針路から東へ転針を行った。



14時43分には東南東へ転針を行った。



これにより先述のようにバルチック艦隊の頭を抑える浅い角度の丁字の形を保持しつつ、同艦隊のウラジオストックへの進路も遮蔽していった。


この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱した。


この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。


連合艦隊の第3・第4・第5・第6戦隊は大回頭に参加せずバルチック艦隊の後方を回り、14時45分に第3・第4戦隊が主力艦隊の右方にいたバルチック艦隊の巡洋艦・特務船に対する攻撃を開始した。