谷 干城陸軍中将 | 戦車兵のブログ

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谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。




通称は申太郎、守部。




号は隈山。




第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。




位階勲等爵位は陸軍中将正二位勲一等子爵。




熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。





生い立ち




天保8年(1837年)、儒学者・谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川に生まれた。



三人の兄が相次いで夭逝したので総領息子となる。



のち、父・景井が土佐藩の上士(小姓組格・武道師範)として取り立てられる。



安政6年(1859年)、江戸へ出て安井息軒、安積艮斎の弟子となり、帰国した後は藩校致道館で史学助教授となった。



文久元年(1861年)、武市半平太と知り合って尊王攘夷に傾倒する。



慶応2年(1866年)の長崎視察の際、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。




迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉、吉本祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)




倒幕に参加



慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、板垣退助や毛利吉盛とともに京都の小松帯刀邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井幸輔と会い、薩土討幕の密約(※薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。



明治元年(1868年)の戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍する。




明治3年(1870年)には家禄400石に加増され、仕置役(参政)や少参事として藩政改革に尽力した。







廃藩置県以降




明治4年(1871年)の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌年には陸軍少将として熊本鎮台司令長官となる。



神風連の乱後、再び熊本鎮台司令長官となるが、この人事は祖先に山崎闇斎門下の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば西郷軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。



明治7年(1874年)5月から12月の台湾出兵に際しては陸軍中将・西郷従道の下に海軍少将・赤松則良と共に参戦した。



明治10年(1877年)の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。




西南戦争以降




西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となった。




しかし明治14年(1881年)に先の台湾出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置していた事実を知って抗議の辞任をする。




この時、明治天皇は谷の意見を評価して辞任を差し止めさせようとしたり、佐々木高行を通じて帰郷を延ばして自分に忠節を尽くすように伝言している。





軍人から政治家へ




その後、学習院院長から政治家に転身。明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、条約改正問題で辞任した。




後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開した。




国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていた。




日露戦争時には、健全財政論・防御中心の軍備を主張する政治的立場から開戦に反対した。





明治44年(1911年)死去。



享年75。



墓は妻玖満子、父、養子乙猪とともに生家に近い安楽寺山城にある。



家督は養子・谷乙猪の長男・谷儀一が継いだ。




条約改正に関する意見書



谷は明治20年(1887年)の農商務大臣辞任の前に『(条約改正に関する)意見書』を内閣に提出しており、その内容は内閣、外交、行政など多岐にわたっている。



その一例をあげれば、言論に関しては「政府官吏は、自ら進んで新聞や、演説にて討論すべきであり、それによって人心が活発になり、腐敗の世態が回復するであろう」と述べている。



また倫理に関しては「官禄に衣食するものは上 陛下の聖意を思い、下は人民の休戚をおもい、戦々兢々ただその責任の尽くせないことを恐れるべし」とも述べている。




坂本龍馬への尊敬



土佐藩上士の谷は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬したとされる。



また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。



谷は事件当初より、犯人は新選組と決めつけていたといわれ、戊辰戦争の際には、流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問について、薩摩藩と殊更対立した。



斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。



明治33年(1900年)、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。





熊本市内に銅像がある。昭和12年(1937年)に西南戦争60年を記念して建てられたが、第二次世界大戦中に金属供出され、現在のものは昭和44年(1969年)に明治100年を記念して、供出される前と同じ型を使って再建されたもの。



作者は朝倉文夫。



以前は熊本城内の天守閣南側にあったが、熊本城本丸御殿の復元に伴い高橋公園に移設された。