八紘一宇、八紘為宇の意味を戦争中の敵国の宣伝のイメージが戦後の八紘一宇、八紘為宇になっているのではないだろうか?
以下産経ニュースより転載
先月16日の参院予算委で自民党の三原じゅん子議員は「八紘一宇(はっこういちう)」について「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と述べた。
日頃、「八紘一宇」のルーツである「八紘為宇(いう)」こそ日本が取り戻すべき理念だと考えていた私からすれば、まさにわが意を得たりの発言であった。
拉致問題ひとつとっても、被害者を「自分の家族」として痛みを分かち合えるのなら何十年も見捨てたままになどできないであろう。
この広大な理想の対象は日本国のみにとどまらない。
先の大戦で渋谷健一特攻隊長は、幼い娘たちに「世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強することが大切なり」と書き遺(のこ)している。われわれ日本人は他者を、蹴落としてでも自分さえ勝てばいい、他国を踏み躙(にじ)っても自国さえ繁栄すればいいといった考え方を良しとしない。
日本人のDNAにはこの壮大な理念が埋め込まれている。
だからこそ、欧米列強の強圧的な植民地支配とは対照的な、アジア太平洋諸国での統治が、先般の天皇、皇后両陛下のパラオご訪問でも示されたような現地の人々の熱烈な親日感情を育んだのであろう。
戦後70年の今こそ、日本人が自ら受け継ぐこの宝のような価値観を自覚し、そこに立ち返ることが、弱肉強食の世界を「強者が弱者を助け共に生きる世」へと導く鍵になるように思えてならない。
「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、極論すれば「八紘為宇」という建国の理念を取り戻すことではあるまいか。
三原発言へのGHQ史観そのものの批判には「まず勉強を」と言いたいが、保守層にこれを擁護する動きが希薄だったのも残念だ。議員の経歴を理由に同発言を軽視する輩(やから)には、そうした「色眼鏡」こそ戦後体制を延命させてきたことを肝に銘じてほしい。
プロフィル】葛城奈海
かつらぎ・なみ やおよろずの森代表、キャスター、俳優。昭和45年東京都出身。
東京大農学部卒。TVドラマなどに出演。自然環境問題・安全保障問題に取り組む。
予備役ブルーリボンの会広報部会長。
近著(共著)に『国防女子が行く』(ビジネス社)。
(産経ニュース)
八紘一宇(はっこういちう)とは、古代中国でしばしば用いられた慣用句を元とし、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。
八紘為宇ともいう。
大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。
また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。
このような表現は中国の正史後漢書・晋書にもあり、例えば晋書では晋の武帝が司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」といっている。
石原莞爾も戦前「昭和十三年十二月二六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。」
「日本主義が勃興し、日本の国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。」と発言している。
東京裁判において、東條の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。
しかし、戦後は昭和32年(1957年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」と発言した。
昭和58年(1983年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した。
しかし、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。
上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。
八紘一宇が世界征服という意味なのか、それとも一つ屋根の下で共存共栄するという意味で捉えるかは捉え方の問題というより政治的な視点でころころと変るものらしい。
本当の意味を今一度学ぶ必要はあるのかもね。