ドーリットル空襲 その1 | 戦車兵のブログ

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ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥーリトル空襲とは、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が、航空母艦に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。



なお作戦遂行において中華民国の国民革命軍の支援を受けた。



名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。




相次ぐアメリカ本土攻撃



1941年(昭和16年)12月8日に行われた真珠湾攻撃以降、アメリカ軍は日本軍に対し各方面で一方的な敗退が続き、さらに開戦後には、同攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26。10隻との記録もある)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。



その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った。



中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活潑な作戦を行った。




さらに1942年(昭和17年)2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行いこれに成功するなど、一連の本土への先制攻撃を行った。



これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時に人種差別政策である日系アメリカ人の強制収容すら行うこととなった。



さらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。




さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。





日本本土攻撃計画



この様な状況を受けて、アメリカ軍は士気を高める方策として首都東京を攻撃する計画を立てた。



しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていたアメリカ海軍の潜水艦は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。



なおアメリカ海軍は日本海軍のような潜水艦搭載偵察機とそれを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった上に、アメリカ陸軍航空軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。



また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。




その一方、米軍空母機動部隊は1942年初頭から、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲を皮切りに日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃をかけている。




宇垣纏連合艦隊参謀長は2月2日の陣中日誌『戦藻録』に「冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合わせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。其の最大なるものを帝都空襲なりとす。」と記した。



宇垣は3月11日にも、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている。




空母艦載機による空襲計画




ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から間もない1942年1月16日の段階で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた。




1月31日、空母「ホーネット」を上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつく。




ローはこのアイデアを航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した。



2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25を空母「ホーネット」から発進させることに成功する。




そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である中華民国の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルトに進言した。





航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細は大統領にさえトップシークレットとされた。



また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であり、連合国軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。



米軍はウラジオストクを避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した。



B-25を搭載する空母は「ホーネット」とされ、姉妹艦「エンタープライズ」が護衛に付くこととなった。



ノースアメリカンB-25爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し、24機を抽出した。



長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設したほか、任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外し、代わりに簡易照準器が搭載された。




4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母「ホーネット」の甲板にクレーンで搭載された。




参加兵力


第18任務部隊


ウィリアム・F・ハルゼー中将


空母 「ホーネット」 重巡洋艦:ノーザンプトン


重巡洋艦:ヴィンセンス


軽巡洋艦:ナッシュビル


第52駆逐隊 駆逐艦:グイ、グレイソン、メレデス、モンセン 給油艦:シマロン


(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)


第16任務部隊


空母 「エンタープライズ」 重巡洋艦:ソルトレイクシティ


重巡洋艦:ノーザンプトン


駆逐艦:ヴァルチ、ベンヘン、ファニング、エレット 給油艦:サビン




艦隊発見



1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。



途中、空母「エンタープライズ」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。



「エンタープライズ」乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している。



攻撃予定日前日の4月18日02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、空母「エンタープライズ」はレーダーに2つの光点を発見する。



米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵のため発進させ、同機は80 km 先に哨戒艇を発見した。



第二十三日東丸


06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。


それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」に発見されたことを意味した。


「第二十三日東丸」は軽巡「ナッシュビル」の砲撃で07:23に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にした。


ただしナッシュビルは撃沈に6インチ砲弾915発と30分を必要とし、日東丸に無線を使う時間を与えてしまった。


06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった。


炎上する第二十三日東丸


米軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意、「エンタープライズ」を発進したドーントレス(米軍記録ではF4Fワイルドキャット戦闘機)は周辺の哨戒艇を攻撃する。


7:00に「栗田丸」、10:00に「海神丸」、11:00に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。


11:30に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。


12:00には「栄吉丸」と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した。


「第一岩手丸」は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日17:00に沈没した。


船員は潜水艦「伊七四」に救助された。


「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日03:00に沈没した。生存者は「栗田丸」に救助された。


「栄吉丸」はSBD1機と交戦し、航行不能となり、支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かった。


12:50、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦「木曾」が砲撃処分した。


乗員は「木曽」に救助された。


13:00、「長渡丸」は『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する。


約30分後の13:36、「ナッシュビル」が「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。


乗員9名が戦死し、5名が「ナッシュビル」に救助されている。


第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名(行方不明14、戦死7、重軽傷13)を失い、第三哨戒部隊は監視艇2隻と15名を失った。






このように米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ、予定より7時間早い07:20からB-25爆撃機を発艦させ始めた。



最後のB-25が08:19に発艦した後、米艦隊は直ちに退避を開始した。



なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた。