大和撃沈70周年 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。


1945年4月7日、戦艦大和が沖縄への特攻作戦の途上、撃沈された日。




4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。




1.航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。




2.好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。




3.揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。





この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。



伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。



4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。




一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が戦艦大和による海上特攻を主張した。



連合艦隊参謀長草鹿龍之介はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。



司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画した。



神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。



神は参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。



豊田は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、うまくいったら奇跡だった。



しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」という。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。



淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。



神は軍令部へ向かったが、作戦課長富岡定俊に燃料がないと反対されたため、軍令部次長小沢治三郎中将から直接承認を得た。



小沢によれば「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と許可を与えたという。



及川古志郎軍令部総長は黙って聞いていたという。



神は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し草鹿参謀長は戦艦「大和」の伊藤整一司令長官に作戦命令を伝え説得しに行ったが、なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と説得すると伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得し、大和による海上特攻が決定した。





4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。



自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。



一方で、草鹿の回想録では4月6日に訪れたことになっている。



『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。



宇垣は及川の対応を批判している。



また草鹿の回想録にも「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と記されている。



特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。



命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。



しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。



ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。



4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。



夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。





4月30日、昭和天皇は米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。



海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。



4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。



「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。
31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」





「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」




4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。




第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。




この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」を掲げた。




片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復の燃料を積んでいたともされている。




第二艦隊は「大和」以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。



先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。



アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の「大和」の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。



当時の「大和」の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。



天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。




もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。



沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。




しかし「大和」を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。




実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。



アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。




しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米軍潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」に行動を察知された。




4月6日21時20分、「ハックルバック」は浮上して大和を確認。



艦長フレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。




この電報は「大和」と「矢矧」に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。




当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。




しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。



しかし実際には、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった。



「武蔵」は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャーは何としても「大和」を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。



またミッチャーは、各部隊の報告から「大和」が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。



なお、スプルーアンスは、アメリカ留学中の伊藤と親交を結んだ仲であった




坊ノ岬沖海戦




4月7日6時30分ごろ、「大和」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。



この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。



九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った。



能村はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。



一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある。



実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった。




その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。



「スレッドフィン」が零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。



米軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が「大和」を発見。



8時23分、別のヘルキャット索敵隊も「大和」を視認した。




このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。




「大和」は主砲を3発撃ったが、米偵察機を追い払うことはできなかった。




4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。



8分後、空母「ベニントン」第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。



中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、米軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。



「大和」は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。



後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。



前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。



また、一発が「大和」の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?]。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。



さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。



建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。



実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。



前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。



清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。





米軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が同時攻撃を行った。



複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な「大和」が完全に回避する事は困難だった。



「ベニントン」隊に続き「ホーネット」第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が「大和」を攻撃。



艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。



12時40分、「ホーネット (CV-12) 」第17雷撃機中隊8機が「大和」を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。



「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。



戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。



魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村は4本、森下は2本、清水は3本(全員左舷)と証言した。



これを受けて、米海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。



「大和」では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。



左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。




13時、第二波攻撃が始まる。



米軍攻撃隊94機中、「大和」に59機が向かった。



第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、「大和」が主砲を発射したと証言している。



射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。



いずれにせよ米軍機の阻止には至らず、「エセックス」攻撃隊が「大和」の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。



さらに直撃弾と火災により、「大和」から米軍機を確認することが困難となる。



米軍機は攻勢を強めた。



「エセックス」雷撃隊(ホワイト少佐)が「大和」の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張。



「バターン」雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張。



「バンカーヒル」雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。



「キャボット」雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、「大和」の右舷に照準を定めたが、進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。



魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二派攻撃が「大和」に命中させた魚雷は29本となった。



これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。




防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長は、米軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。



宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。



「大和」は速力18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。



左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。



左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。



13時25分、通信施設が破壊された「大和」は「初霜」に通信代行を発令した。



13時30分、「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「ラングレー」攻撃隊105機が大和上空に到着した。



13時42分、「ホーネット」「イントレピッド」第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。



この頃、上空の視界が良くなったという。



このように14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。



戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。





『軍艦大和戦闘詳報』による主な被害状況は以下のとおり。



ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。



また「大和」を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。



例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。



12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。



13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。



13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。



13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵。



14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中。



14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。



14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。



機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。



14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す。



14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。



総員上甲板(総員退去用意)を発令。





「大和」は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生。艦上では、爆弾の直撃や米軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。



水面下では、米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。



「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。



後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。



また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。



このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。



また、「大和」が左舷に傾斜したため、右旋回が出来なくなったとする見方もある。



船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。



これらのことにより、米軍は容易に「大和」に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。



左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。




「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名。




第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名である。




護衛していた軽巡洋艦「矢矧」446名(沈没)、駆逐艦「磯風」20名(自沈)、「浜風」100名(轟沈)、「冬月」12名、「涼月」57名(大破)、「雪風」3名、「霞」17名(自沈)、「朝霜」326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3721名が戦死した。



「初霜」は負傷者2名だった。




菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。




重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。




とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。




うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。




「大和」を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも駆逐艦「浜風」に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。




戦艦「大和」の沈没によって連合艦隊は完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。




4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった。




4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。





大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。




同様の感想は、「大和」の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている。




終戦後の1945年(昭和20年)12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「大和」の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。




戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分。




だが実際の「大和」は、北緯30度43分 東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している。