佐藤 康夫 海軍中将 | 戦車兵のブログ

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佐藤 康夫(さとう やすお、1894年3月31日 - 1943年3月3日)は、日本の海軍軍人。



最終階級は海軍中将。



医師・佐藤慶治の息子として東京で生れる。静岡中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を卒業し、1917年12月、海軍少尉に任官。運送艦「能登呂」分隊長、鎮海防備隊分隊長などを経て、海軍水雷学校高等科で学ぶ。



以後、「欅」乗組、「矢矧」・潜水母艦「韓崎」の各水雷長、「第11号掃海艇」(長月 )艇長、「楓」「桃」「春風」「敷波」「暁」の各駆逐艦長、馬公防備隊副長、第1防備隊司令、「那智」副長、第5駆逐隊司令などを歴任し、1940年11月、海軍大佐に進級。



太平洋戦争を第九駆逐隊司令として迎えた。



その後、第八駆逐隊司令に転出。



1943年3月3日、ビスマルク海海戦に参加、ダンピール海峡において乗艦と運命を共にした。



 朝雲


スラバヤ沖海戦



彼の武名を轟かす海戦のうちの一つが太平洋戦争緒戦、1942年2月27日に起きたスラバヤ沖海戦である。



彼は第九駆逐隊司令として参加。第二次昼戦にて他の日本艦隊が酸素魚雷の長射程を頼りに一万m以上で魚雷を発射する中、第九駆逐隊の駆逐艦「朝雲」と「峯雲」を率いて敵艦隊に接近戦を仕掛けた。



日本艦隊の他隊が次々に魚雷を発射し反転していくのを見て、「朝雲」の水雷長が「司令、もう撃ちましょう」と何度も催促するのを「もうちっと、もうちっと」と発射の号令を下さず、これに痺れを切らした「朝雲」艦長岩橋透中佐が「司令、他の隊は反転しました。



当隊も反転したらどうですか」と進言したのに対して大喝一声「艦長!後ろを見るなっ!前へっ!」と叫びさらに接近を続けさせた。



5000mまで接近したところでようやく「発射はじめ」の命令を下して、魚雷を発射。しかし尚も反転せずにそのまま直進を続け敵艦隊に肉薄しつづけた。

 エンカウンター


これに対して連合軍艦隊はイギリス駆逐艦「エンカウンター」と「エレクトラ」が捨て身の反撃に出た。



距離3000mという超至近距離の砲撃戦が始まり、第九駆逐隊の砲撃に圧倒された「エンカウンター」はあわてて反転離脱、単艦で立ち向かってきた「エレクトラ」は缶室に被弾し航行不能となったが反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中。



「朝雲」も電源故障を起こした。



電源が止まった「朝雲」ではあったが佐藤大佐の「砲は人力で操作せよ、砲撃を続行せよ」との命令の下、砲塔の各個照準砲撃と「峯雲」の砲撃により「エレクトラ」を撃沈したのである。



この海戦の日本側の総司令官であった第五戦隊司令官高木武雄少将はこの第九駆逐隊と佐藤大佐の奮闘ぶりを特筆し、称賛している。



 第8駆逐隊旗艦「朝潮」


その最期



「駆逐艦の墓場」とも呼ばれたガダルカナル輸送、撤退作戦のほとんどに参加し、その武名を轟かせた佐藤にも遂に運命の日が訪れる。



ソロモンの戦局が押し迫った1943年2月末、東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八一号作戦」に護衛部隊として参加。



この作戦は日本軍側でも成算の見込みがほとんど無い作戦であり、全滅の可能性が高いことは実施部隊の中では認識されていた。



佐藤はラバウル出撃の前の晩に海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「野島」艦長松本亀太郎大佐と酒を酌み交わした際に、「今度の作戦は危ないかもしれん。貴様の艦がやられたときにはすぐに飛んでいって救助してやるから安心しろ」と約束していた。



 第3水雷戦隊司令官木村昌福少将


案の定米軍機の一方的な攻撃を受け輸送船団と護衛部隊は壊滅的な損害を被り、更に敵機の再来襲の報が入ったため第3水雷戦隊司令官木村昌福少将は、3月3日10時30分頃、残存艦艇に一時退避命令を下した。



佐藤は無傷であった第8駆逐隊旗艦「朝潮」に座乗していたが、作戦前に松本大佐と交わしていた「どちらかがやられたときは必ず救援に駆けつける」という約束を守り、「我、野島艦長との約束有り、野島救援の後避退する」との信号を発し他艦が避退に移る中、「朝潮」は単艦で「野島」救助に向かった。



「野島」に近づいたところ近くに航行不能となった「荒潮」が漂流しており、「朝潮」は松本大佐を含め両艦の生存者を救出後、避退に移った。



しかし直後にB-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機が船団を攻撃、「神愛丸」「太明丸」「帝洋丸」「野島」が被弾沈没した。



被弾し航行不能となっていた「大井川丸」、駆逐艦「荒潮」「時津風」もその後の攻撃で撃沈された。これが所謂「ダンピールの悲劇」とも呼ばれるビスマルク海海戦である。




「朝潮」は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、敵機に袋叩きに遭い終に航行不能となる。



艦長吉井中佐、救助されていた「荒潮」艦長久保木中佐以下多数の将兵がこの戦闘で戦死した。



総員退艦命令が下され、生存していた松本大佐が退艦しようとしたところ、佐藤大佐はまだ無事生存していて、松本大佐がいるのを見つけると「早く退艦しろよ」と声をかけたという。



松本大佐が「司令こそ早く退艦してくださいよ」というと、司令は寂しく笑って「いや、俺はもう疲れたよ。このへんでゆっくり休ませてもらうよ。さあ、貴様は早く退艦したまえ。」と言い、沈みつつある「朝潮」の前甲板に座り込んだという。



瞬時にその覚悟を悟った松本大佐は意を決して別れを告げると海に飛び込み艦から離れた。



しばらく泳いでから「朝潮」を振り返ってみると、沈みつつある朝潮の前甲板で腕と足を組み悠然と大空を見上げている佐藤大佐の姿があったという。



駆逐隊司令として太平洋での海戦参加回数27回、ガダルカナル島への輸送参加12回、挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力で知られた歴戦の水雷屋であった佐藤はこうして戦死した。


生前の軍功に報いる形で戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられている。