クロンシュタットの反乱 | 戦車兵のブログ

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クロンシュタットの反乱(クロンシュタットのはんらん、ロシア語:Кронштадтское восстание)とは、1921年3月にペトログラード西方の軍港都市クロンシュタットで起きた水兵たちによる反政府蜂起。


バルト海艦隊の拠点であるクロンシュタットの水兵たちは、当初はボリシェヴィキがロシア革命を進める上での重要な支持者であったが、次第にボリシェヴィキと水兵の意見の相違が大きくなった。


1921年、独裁化するボリシェヴィキ政権に対し、クロンシュタットの水兵たちは、戦艦ペトロパブロフスクの船上で開かれた乗組員集会において、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択した。


水兵たちが蜂起するに及び、モスクワ政府は赤軍部隊を派遣する。



当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴェト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下で部隊を編成するが、赤軍の兵士が反乱軍に同情して攻撃命令を拒否すると鎮圧軍は従わない兵士を形だけの裁判で銃殺。



さらに、チェーカーが兵士の傍に付き添い戦闘中に逃亡した兵士は射殺する命令を出した。



赤軍は2度にわたる総攻撃で反乱を鎮圧した。当時、軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長だったトロツキーは「クロンシュタットは鉄の箒(ほうき)で一掃した」と発表した。



赤軍側は4000人以上の戦傷者を出した。



一方、反乱側の死傷者の数は不明だが『共産主義黒書』によれば鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄されたと言われる。



また、8000人の反乱軍兵士がフィンランドに亡命した。



十月革命の拠点で起きたこの事件の影響は大きく、ネップ(新経済政策)への政策変更を早めたとされる。