摺鉢山の戦い | 戦車兵のブログ

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摺鉢山の戦い



2月20日、準備砲爆撃の後、第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。



海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と島の中央部に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断された。




摺鉢山の日本軍は摺鉢山地区隊(独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊など)が守備にあたっており、その斜面は1mごとが戦闘の連続だった。



砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進し、日本軍では摺鉢山守備隊長の厚地兼彦陸軍大佐が戦死した。



市丸海軍少将は「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ」という報告を大本営へ打電している。




21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸する。



同日、千葉県香取基地から出撃した爆撃機・彗星12機、攻撃機・天山8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。



この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。




同隊突入前に、木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔を撒いてレーダーを攪乱した。




御楯隊は艦隊の混乱に乗じ、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上、護衛空母「ルンガ・ポイント」と貨物船「ケーカック」損害などの戦果を挙げた(この光景は硫黄島守備隊にも目撃されている)。




艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む」と発信。




その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。




その後も、日本は陸軍航空部隊の四式重爆撃機「飛龍」や、海軍航空部隊の陸攻による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施している。



アメリカ軍の被害について(翌22日公式発表)「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、ワシントンの一部新聞が硫黄島での毒ガス攻撃を呼びかけるほど、本国では硫黄島戦における苦戦が衝撃的であった。



22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。



摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。




日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。



23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28in.×54in.の星条旗を掲揚した。




硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたホーランド・スミス海兵中将へ「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな。」と語り、この旗を記念品として保存するように所望した。




そこで、揚陸艇の乗員が提供した5ft×8ftと先の旗の2倍となる星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった。



午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」その瞬間を捉えたような印象を与える(つまり後撮り)写真とあわせ写真3枚を撮影した。



この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。硫黄島の戦いは「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示したのだった。



しかしその4日後のサンフランシスコでは「(タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに)マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていない」と海軍批判の社説が掲載された。



星条旗が摺鉢山頂上に揚がった日の翌朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っていた。



米軍は早速、日本兵がまだ潜んでいると思われる山頂周囲の壕や穴の中に、片っぱしから手榴弾を投げ入れて火炎放射器を使った。



そして再び星条旗を掲げ直し、その星条旗は24日中そのまま掲げられていた。



ところが翌25日早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗が、はためいていた。



これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ている証しであった。



その後の戦闘で、摺鉢山頂上の旗が日章旗に代わることは、もうなかった。