海軍作戦部長 アーレイ・アルバート・バーク米海軍大将 | 戦車兵のブログ

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アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke, 1901年10月19日 - 1996年1月1日)は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。



バークはアメリカ海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を3期6年の長きにわたって務めた。



バークはコロラド州ボルダー市近郊の農家に生まれ、1919年海軍兵学校に入校。



1923年に少尉に任官し、戦艦アリゾナ、重巡洋艦チェスター、駆逐艦クレイブン乗り組みや地上部隊、海軍省兵備局勤務を経験し、この間にミシガン大学で工学修士の学位を得た。



1939年6月に駆逐艦マグフォードの艦長となり、1940年半ばから1942年末までは海軍砲熕工場勤務で、中佐に昇進した。



太平洋戦争開戦で、粘り強い努力によって南太平洋戦域へ転出したバークは、第12駆逐隊司令、第23駆逐隊司令、第12水雷戦隊司令官となり、戦時昇進で大佐となった。


1943年10月には、「リトル・ビーバーズ」として知られる第23水雷戦隊の司令官となり、同年11月にブーゲンビル島上陸作戦の支援にあたった。


同戦隊は、それから4ヶ月の間にセント・ジョージ岬沖海戦など22回の戦闘に参加して、日本海軍の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻などを撃沈破、航空機約30機を撃墜した。


バークは麾下の駆逐艦を当時艦隊行動できる限界とされていた30ノットを超える31ノットで走らせ、「31ノットで航行中」と打電したことから、「31ノット・バーク」と呼ばれるようになった。

1944年3月に太平洋艦隊の高速空母機動部隊、第58任務部隊司令官マーク・ミッチャー中将の参謀長となり、戦時昇進で代将となって、1945年6月までその職にあった。


沖縄戦でミッチャー司令官が旗艦としていた空母バンカー・ヒルとエンタープライズが相次いで特攻機の攻撃を受けた際には、参謀長のバークも乗り組んでいた。


その後、短期間の海軍省兵備局勤務から、1946年に大西洋艦隊司令長官となったミッチャー大将の参謀長を務め、また太平洋戦争後は大佐の階級に戻った。


朝鮮戦争が勃発すると、海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将は、極東艦隊参謀副長としてバークを日本へ派遣した。


バークは巡洋艦隊を指揮し、1951年7月に国連軍休戦会談代表団の一員となった。


その後、バークは、海軍作戦部戦略計画部長、第6巡洋艦隊司令官、大西洋艦隊駆逐艦隊司令官を歴任し、1955年8月、海軍作戦部長に就任して、少将から直接、大将に昇進した。

1961年8月に海軍作戦部長退任と同時に退役。


1991年にアーレイバーク級駆逐艦の1番艦がバークにちなんで存命中に命名された。

1996年1月1日にベセスダの海軍病院で没した。


94歳。

バークが死去した際には哀悼の念を表するため、就役済の全アーレイバーク級駆逐艦が1分間、31ノットで航行した。

嫌日家から親日家へ



太平洋戦争終戦後、暫くはかつての敵であった日本人に対し否定的な感情を持っていた。


公の場で日本人を「ジャップ」「黄色い猿ども」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人を蔑み嫌う等、反日的・嫌日的な態度を取っていたが、ふとしたきっかけで元海軍中将草鹿任一と知り合い親交を持つようになると、以前とはうって変わって親日家となり、日本が早く占領状態から解放されるように軍人の立場から尽力、海上自衛隊の創設に協力することとなる。


この功により1961年に勲一等旭日大綬章を授与された。


他にも生前の様々な功績により、アメリカはもちろん各国から数多の勲章を授与されていたが、バークの遺志により、葬儀で遺体の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章ただ一つだけであった。


そのため、ワシントンにある海軍博物館のバークに関する展示には、各国から授与された勲章は多くあれど、日本のものだけが抜けたままとなっている。