マレー沖海戦  1 | 戦車兵のブログ

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マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、第二次世界大戦及び太平洋戦争の初期の1941年12月10日に、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。


日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。


また、当時の「作戦行動中の新式戦艦を航空機で沈めることはできないとの常識を覆した。


当時の世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれている。


1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。


幾度かの計画変更の後、1941年4月には米・英・蘭の間で協定が結ばれ、米国は艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、英国は東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する。


ウィンストン・チャーチル英国首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した。


英軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母「ハーミス」、「アーク・ロイヤル」、「インドミタブル」を送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦「ティルピッツ」の出撃に備えて英国本国のスカパフローから動かすつもりはなかった。


これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する。


チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという。

最終的に、キング・ジョージ5世級の一艦である「プリンス・オブ・ウェールズ」、レナウン級巡洋戦艦「レパルス」、空母「インドミタブル」、護衛の駆逐艦「エレクトラ」、「エクスプレス」、「エンカウンター」、「ジュピター」からなるG部隊が編成された。


「プリンス・オブ・ウェールズ」は10月23日にスカパフローを出港、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着した。


「プリンス・オブ・ウェールズ」はマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されて英連邦諸国民に安心感を与えた。

その一方、空母「インドミタブル」は11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった。


かわりに小型空母「ハーミーズ」の合流が決定したが、ダーバンで修理中のため、合流できなかった。


フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦「リヴェンジ」、「ロイヤル・サブリン」、クイーン・エリザベス級戦艦「ウォースパイト」を12月20日頃までに派遣するよう希望している。


航空機に関して英軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(英軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった。


これはチャーチル首相がソビエト連邦に大量の航空機を供給していたからである。

日本軍は英国東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。


12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦「辰宮丸」が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が哨戒していた。


宇垣纏連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している。


実際に日本軍は松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドウム基地:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備して英国東洋艦隊を待ちうけていた。


12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英への宣戦を布告したと報じた)。


この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。

Z部隊兵力戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ


巡洋戦艦:レパルス


駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、テネドス、ヴァンパイア(この艦はオーストラリア籍)


この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。


この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。


トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督は午後3時50分に「ウェールズ」に戻ると作戦計画を練った。


東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てる。


ところが英国空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップスに対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。


「プリンス・オブ・ウェールズ」が抜錨してまもなく、空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機による護衛不可能』と連絡している。


それでも東洋艦隊は12月8日午後8時25分にシンガポールを出撃した。


事前に英国東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東英連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、面子の関係からも出撃しないわけにはいかなかったのである。


マレー半島とアナンバン諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたためZ部隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船団に向けて進撃した。


英軍は前述のように日本軍航空機の性能を過小評価していたため空襲による危険は大きくなく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた。


そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。


もっとも、かつて「プリンス・オブ・ウェールズ」を砲撃戦で大破させたドイツ戦艦「ビスマルク」がフェアリー ソードフィッシュの雷撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。

一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、金剛型戦艦「金剛」と「榛名」がいた。


近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」より劣っていた。


このため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に砲撃戦を挑むことは想定していなかった。


また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。


ただし後の調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。


他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。


いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。


「金剛」「榛名」以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。


輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。

9日午後3時15分、潜水艦伊65(原田毫衛艦長)がZ部隊を発見、以下の電文を打電した。


敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「フモハ26」[注 3]、針路三四〇度 速力20節 一五一五
宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、「伊65」のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である。


「伊65」は打電後も接触を続けたが、午後5時20分に一旦見失った。


近藤信竹中将の第二艦隊には、午後5時25分に「レパルス型戦艦2隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という情報が入った。


第二艦隊は反転南下した。


「伊65」は午後6時22分に再度発見したもの、上空に水上偵察機(軽巡洋艦鬼怒搭載機)が出現したため潜航したので目標を見失った。


空からは、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦「鬼怒」と第五潜水戦隊旗艦・軽巡「由良」の九四式水上偵察機、第七戦隊(栗田健男少将)旗艦・重巡洋艦「熊野」の零式水上偵察機が日没まで触接を続け、由良機が未帰還となった。

午後5時15分に東洋艦隊発見報告を受けた小沢中将は、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令した。


松永貞市少将は攻撃隊3波を発進させた。


陸攻部隊は爆弾を装備し、英戦艦にダメージを与えて日本軍艦隊を掩護する事が任務だったという。

しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。


美幌空第二中隊(武田八郎大尉)は「鳥海」をZ部隊と誤認し、「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」と報告して吊光弾を投下する。


仰天した小沢は松永少将あての電報「照明弾下にあるは味方なり」を連送信して攻撃中止と陸攻隊全機帰投を命じ、これは小沢が本海戦で発した数少ない命令の一つである。


その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。


「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダーは日本軍水上偵察機を捉えていたが、フィリップスは船団攻撃の決意を変えず、以下の命令を出している。

1.わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中主力艦は金剛ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2の各型巡洋艦と駆逐艦多数あり。


2.本長官は明早朝、敵の航空攻撃を受ける以前に敵上陸支援部隊を奇襲せんとするも、これに先立って金剛と遭遇するときは優先的にこれと戦い撃滅せんとす。


3.1800(東京時間午後7時30分)信号を待ちて針路を320度とし、さらに1930(午後9時)280度に変針し、24ノットに増速すべし。その後は10日1600(午後5時30分)C地点(アナンバス諸島付近)に於いて集合し得る如く行動せよ。


4.明日0745(午前9時15分)を期しシンゴラ突入を決行す。攻撃後は東方に避退す。


5.10日未明以前に駆逐艦3隻を分離帰投せしめ、その後は戦艦のみにて突撃す。全軍の武運を祈る。


フィリップスは駆逐艦「テネドス」が燃料不足気味だったため、午後6時30分に艦隊から分離、単艦でシンガポールに引き返させた。


その際、テネドス艦長に対し10日朝に無線封止を解除し、アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めている。


その後もZ部隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、午後9時45分頃にZ部隊前方5マイルに青い閃光を確認する。


これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから南東のコタバルに変更した。


Z部隊と小沢艦隊の距離は23マイルに接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダー(25マイル)が「鳥海」を捉えなかったことを不思議な事と指摘している。


午後10時30分、フィリップスは作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達した。


12月10日午前1時、Z部隊はパリサー参謀長より日本軍がクアンタンに上陸したとの入電があり、フィリップスはシンガポールの帰路中に日本軍輸送船団を砲撃することを決意する。


だがクアンタン日本軍上陸は誤報であり、Z部隊はかえって日本軍空襲圏内にとどまることになった。


翌12月10日午前1時22分、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦「伊58」が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航した。


直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。


〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度


この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。


「伊58」は以後も接触を続け、午前1時45分、「レパルス」に向けて魚雷5本を発射したが、Z部隊の変針が重なり命中しなかった。


「伊58」は浮上航走しつつZ部隊を追跡、以下の3通の電文を打電した。


1.我地点「フモロ」45[注 4]ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一


2.敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五


3.我触接ヲ失ス 〇六一五


6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。


電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、燃料不足の懸念から近藤信竹中将は午前8時15分「水上部隊の追撃を断念す」と打電、小沢中将も潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった。