冬戦争  2  雪中の奇跡 | 戦車兵のブログ

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雪中の奇跡


開戦当初のフィンランド軍は、後に救国の英雄と称えられるマンネルヘイムを総司令官として、自動車化された16万人の戦力を保有していた。


ただし、広い国土に分散して配置されており、兵力的には圧倒的に劣勢のため、戦術として遅滞戦術、焦土戦術、ゲリラ戦を用いて対抗した。


実働部隊としては、森林地帯の地理に熟知し、年少より狙撃に慣れ親しんだ者を集め、白色の服などで十分にカモフラージュされたスキー部隊が活躍した。



その他に、スペイン内戦を起源とする即席のガソリン製手投げ弾や火炎瓶が製造され、ソ連戦車に対して大きな効果を挙げた。


当時のソ連外相のモロトフをこの爆弾で文字通り「暖かく」迎えてやろうという意味を込めて「モロトフ・カクテル」と呼ばれた。

これは、モロトフ外相がフィンランドへの空爆を「人民にパンなどを投下している」などと発言したことに対する皮肉と言われているが、真相は定かではない。



ドイツ軍による物量圧倒戦(ポーランド侵攻)を自らの手により再現することを夢見ていたソ連は、戦争の勝利を楽観視していた。


フィンランド侵攻に先立って開かれた軍事会議では、万全を期して2-3ヵ月分の確保が必要とする意見もあったが、少数意見として黙殺され、1-2週間分の弾薬供給で十分とされた。


冬季戦闘の準備はまったく不十分で、特に森林戦を想定しておらず、鈍重で攻撃されやすい車輌を多く使用していた。


1939年から1940年にかけての冬の気象条件は、マイナス40度になる日が連日続くなど極寒であり、これもフィンランド軍に有利に働いた。


一説によると、ソ連軍の戦死者の80%は補給を絶たれた末の凍死によるものと言われている。


また、スターリンの大粛清により赤軍将校が多数処刑されたことで組織が骨抜きになっていたため、数に任せた第一次世界大戦さながらのばらばらな銃剣突撃を繰り返すだけという無能無策ぶりをさらけ出していた。


森の中の道を行進するしかないソ連軍部隊は、白い服装で隠れていたフィンランド兵の格好の餌食となり突然攻撃を仕掛けられ、待ち伏せにより大損害を被った。


待ち伏せ攻撃はモッティ戦術といわれる包囲戦術に発展した。

スキー部隊等を活用して、行進するソ連部隊の先頭後尾を叩いて、身動きを取れなくし、包囲殲滅していく戦術である。


フィンランド軍の武器、弾薬、装備は極度に不足していた。


開戦時、基礎訓練を修了した兵士にだけ軍服と武器が支給され、残りの者は、自前で武器を調達し軍服を製作しなければならなかった。


これらの自作の軍服に対しては、当時のフィンランド政府の首相アイモ・カヤンデルにちなんで、「カヤンデル・モデル」という愛称がつけられた。


またソ連軍から鹵獲した装備、武器、弾薬が積極的に再利用された。


フィンランド独立後に小銃の口径を変更しなかったため、ソ連の弾薬がそのまま使えるということも幸いした。


特に12月9日から開始されたスオムッサルミの戦いでは、フィンランド陸軍第9師団が1月初頭にかけて赤軍第9軍の第163狙撃兵師団および第44狙撃兵師団を撃破している。

国際社会の反応


国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。


当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。


イギリスでは労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。


アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方で、ソ連に対しては、同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。


また、アメリカやカナダに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り義勇兵となった者もいた。


後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。


隣国スウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援の他に、9千人余りの義勇兵が派遣された。


ソ連軍の戦闘機は彼ら義勇軍の乗った輸送列車も攻撃した。


国際社会の反応


国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。


当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。


イギリスでは労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。


アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方で、ソ連に対しては、同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。

また、アメリカやカナダに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り義勇兵となった者もいた。


後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。


隣国スウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援の他に、9千人余りの義勇兵が派遣された。


ソ連軍の戦闘機は彼ら義勇軍の乗った輸送列車も攻撃した。


フランスでは反ソ感情が高まり、ダラディエ首相はカフカース地方からソ連を攻撃し、フィンランド軍と連合軍でソ連を挟撃する計画をイギリスに提案している。


しかし英仏両国は対独戦の最中であり、イギリスはこの提案を拒否した。


後にモスクワ講和条約が結ばれると、ダラディエはフィンランド支援失敗の責任を追及され辞職に追い込まれた。

ドイツは、外務省が冬戦争の開始前から秘密議定書の内容を遵守する事を明確にし、全ての在外外交官に対してソ連側の立場を支持するように訓令しており、もはや頼みにならなかった。


しかし、他に頼みとするスカンジナヴィア諸国や連合国の各国政府の反応もフィンランドへの積極的な支持とはいかなかった。


戦争に巻き込まれる懸念のほか、自国の戦争準備に手一杯であり、傍観するか中立を貫いた。


しかし、ヘルシンキにいた外国の特派員が「雪中の奇跡」としてフィンランドの予想外の善戦を報じるなどすると、英仏には軍事支援を行う積極的な動機が生じた。


1940年2月、連合国はフィンランドに対する支援を企図し、ノルウェーのナルヴィク港に10万人の兵士を上陸させ、スウェーデン経由で支援することを予定した。


しかし、ノルウェーとスウェーデンは、この作戦の目的が、ドイツへの鉄鉱石の輸出を停止するためではないか、またそれにより国内が戦場になるのではないかという恐れから、連合軍の通過を拒絶した。

スウェーデンは冬戦争で中立を宣言していたわけではないが、戦争開始直後にドイツ政府から、スウェーデンが何らかの形でフィンランド側に加勢すれば、直ちにドイツ・スウェーデン両国が戦争状態に入るだろうと警告されており、連合国にもドイツやソ連にも与しなかった。


首相ペール・アルビン・ハンソンは、他国の軍隊を通過させることは、国際法上の中立性を破ることになるという理由を表明するだけでなく、フィンランド政府の再三に渡るスウェーデン正規軍の派遣要請も頑なに拒絶し、最終的には、武器・弾薬の供給も停止されることとなった。


冬戦争末期、フィンランドからの要請があれば、連合国より50,000名の兵士が派遣されることになっていたが、実際にフィンランドに向かうのは6,000名で、残りはスカンジナビア半島北部の鉄鉱石産出地域の防衛の任に就くことになっていた。


戦後明らかになったことによれば、連合国の遠征部隊の司令官はソ連軍との直接的な戦闘は避けるように命令されていた。


このように、他国からの支援のほとんどは、全く不十分であるか、時期を逸していた。


また、世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式な兵器ばかりであり数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついぞ行われなかった。


停戦


冬季装備も満足にしていなかったソ連軍は各地で撤退を余儀なくされていた。


スターリンは小国相手に無様に惨敗する自軍からの報告に怒り狂い、敗北の責任は大粛清で赤軍の優秀な将官が失われたことに求めず、ソ連の国防相(国防人民委員)であるクリメント・ヴォロシーロフに擦り付け彼の責任を厳しく追及した。ヴォロシーロフはロシア革命以来のスターリンの友人だったが、この時の侮辱には我慢できず、遂に目の前の独裁者に向かって「敗北について責められるのはあなたの方だ、あなたは我が軍の優秀な将校を処刑したのだ」と怒りの声をあげて反論した。


深夜にスターリンの別荘で開かれていた酒宴で起こった両者の罵り合いは、激高したヴォロシーロフが子豚の丸焼きをのせた大皿をひっくり返すまで続いた。


ヴォロシーロフはこの後、国防人民委員を解任された。周りの者は誰しもこれでヴォロシーロフの政治生命も終わったと予想していたが、引き続きクレムリンで政治家として生き残り、後にソビエト最高会議幹部議長に就任している。

1940年1月、初期の敗戦の責任を取らされる形でヴォロシーロフは罷免され他にも数名の将校が銃殺された。


そして、新しい総司令官にセミョーン・チモシェンコが任命され、態勢の立て直しが図られた。


12月末には第7軍に加えて第13軍が増援として送られており、この2個軍はさらに砲兵などの増援部隊を加えて北西正面軍として再編制が行われていた。


これらの兵力をもってカレリア地峡のマンネルヘイム線に対して、2月1日に攻撃が再開された。


2月10日までは、空襲と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。


ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、圧倒的な物量により鉄壁だったマンネルヘイム線の突破に成功した。


ソ連指導部は、戦争開始から1ヶ月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。


死傷者の増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。


また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。


ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。


1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。

しかし、スウェーデン王グスタフ5世がフィンランド支援のために正規軍を派遣しないことを公式に表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的な判断により、講和による決着を考えていた。


これを受けた政府は2月29日より講和の交渉再開を決定した。


同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。


和平交渉の結果、両国は3月6日に停戦協定に達した。


4ヶ月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。


ソ連軍の戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。


フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。

モスクワ講和条約


1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。


フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当するカレリアの割譲を余儀なくされた。


カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。


カレリアの住民はソ連への帰属を拒み、全人口の12%にあたる42万2千人がソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか難民となった。


その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。


フィンランド人はこの過酷な講和条件に衝撃を受け、戦い続けた場合に失った領土よりも多いのではないかとさえ言われたが、これによってフィンランドは戦争を停止し、国力を回復することになる。


ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合された。


ソ連はカレリア半島を得て、フィンランド湾のいくつかの島を占領したことでバルト地方に対する圧力をさらに高めることに成功した。


1940年6月にはバルト海岸を軍艦によって閉鎖しバルト諸国に侵攻、国内にソ連赤軍の軍事基地をおいていたバルト諸国はそこから攻撃されることとなった。


これによってソ連は、冬戦争では成し遂げられなかった戦争相手国の数日間での占領を達成した。


軍事的圧力下でバルト諸国は圧倒的な賛成多数によりソ連への編入を決定し、半月を持たずにソ連領となった。


一方、フィンランドは独立は守ったものの、過酷な講和条約の下で多くのフィンランド人が領土の奪還を誓った。


フィンランドは国際社会に復帰しようとするが、ドイツのデンマークとノルウェー侵攻で連合国との連絡路を失い、スウェーデンの同盟支援すら得ることができず、国際的に孤立する。


このためフィンランドは軍事援助を受けることを目的にドイツに接近し、軍事基地の提供などを行った。


1年少々の休戦期を経てドイツのバルバロッサ作戦とともに1941年にフィンランドは再びソ連と戦争に入った。


これは継続戦争と呼ばれている。


その優れた軍事、政治手腕でフィンランドを亡国の淵から救ったマンネルヘイム元帥は、継続戦争も再び総司令官として戦うことになった。